【秘密教義のオカルティズム】 — 第25章 東洋と西洋のオカルティズム 他—(その3)
<初版1897年発行>
シークレット・ドクトリンのオカルティズム
第3巻 ― 第25章
H.P.ブラヴァツキー 原著
アニー・ベサント 編著
<[角括弧]はアニー・ベサントによる追補>
<[各単語等] はaquamarithによる追補>
◎人類の聖書
キリスト教の重要な“真実”とバラモン教の“神話”に多くの類似があるとの意見があり、近年「バガヴァッド・ギーター」、「ブラーフマナ」や「プラーナ集」の多くが、「モーゼ五書」更に数々の「福音書」よりはるかに後代のものであるという証明をしようとする重大な企てがされてきた。しかし「リグ・ヴェーダ」が既に存在していたことから、議論がこのような強引な目的を達成することはあり得ない。リグ・ヴェーダに割り当てられる年代を最大限度まで引き下げても、モーゼ五書に日付を重ねることは不可能である、明らかにモーゼ五書は後代に属する。
東洋学者たちは、後続の全宗教にはその教えが引き継がれておりリグ・ヴェーダと呼ばれる“人類の聖書”のなかに、重要な歴史的・文化的意義のある教えや物を、取り去ることができないことをよく知っている。知的な人類のまさにその夜明けに、すべての信仰や信条、すべての寺院と教会の礎石が時代の変遷に寄り添い建立され、それらは今もなお存在する。普遍的な “諸神話”、神や宇宙、原初的二次的な諸動力の擬人化、そして途絶えた宗教だけでなく、現存する全宗教上の歴史的人物たちが、リグ・ヴェーダの7主神及びそれらの330,000,000神にも及ぶ相関関係のなかで見いだされる、そしてそれら7神と、数百万のいくらかは、共に唯一無限な統一の光線である。
しかし、世俗的な崇拝は、これ(THIS) に捧げられることは決してない。それは、“最も抽象的な瞑想の対象であり、これのなかに専心する為のヒンドゥー教徒の実践、”だけに限られるのである。“創造”の“夜明け”の始まる都度の、永遠の光―それは暗闇であり―それは“混沌”の状況とみなされる、人間の知力への混沌;それは超人的あるいは霊的な感覚に向かう永遠の根である。
“オシリスは黒い神である。”これはエジプトで秘儀参入時に“小声”で発せられた言葉である、なぜならオシリス・ヌーメノン[それ自身の中にあるもの]は人間にとっての暗闇であるからだ。混沌のなかで“水”、“母イシス”、アディティなどが形成される。それらは“生命の水”であり、そのなかで原初の光により、原初の胚たちが創造—--というより再覚醒—--される。プルショーッタマすなわち神聖な霊は空間の水の上を動くものとしてのナラーヤナの能力であり、それは“金色の宇宙卵”になる胚のなかに生命の息を吹き込み結実させる。宇宙卵のなかでは男神のブラフマーが創造され、これから最初のプラジャーパティ、存在たちの主(Lord)が出現し、人類の先祖となる。*(14)
そして、それが彼ではなく、自身の内に宇宙を含むと言われている絶対者であるにしても、それを可視の形で顕現することが男神のブラフマーの務めである。それゆえに、彼は種の生産と関係づけられなければならない、以降の擬人化のヤハウェと他の男神たちのように、陽物崇拝的な象徴を引き受けなければならない。せいぜい、そのような男神たちは、すべてのものの“父”として“原型的な人間”にはなるが、彼と無限の神との間には暗黒の空間が広がっているのである。人格神(複数)を持つ有神論的宗教において、人格神は抽象的な諸力から物質的な潜在力に退かされる。生命の水—母なる大自然の“深み” —は、神人同形論の宗教においては地上的側面として見なされる。これは注視に値する、神学的な魔法によって生命の水は、なんと神聖になったのだろう! それは神聖を維持されており、ほとんどすべての宗教で古来より神格化されている。だが、もしもキリスト教徒が洗礼や祈りを、霊的な浄化手段としてつかうならば、もしもヒンドゥー教徒が彼らの神聖な小川や池と川に敬意を払うならば、もしもパルシー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒がその効力を同様に信じるならば、確かにその要素は重要なオカルト的意味を持つにちがいない。
オカルティズムにおいて、それは低級七つ組でのコスモス[Kosmos、宇宙、世界]の第五本質を表す、可視宇宙(Universe)全体は水によってつくられたとカバリストたちは言う、“生命の水”と“水による魂の救済”の違いを彼は知っているが、教条的な宗教は、これらを同一視しており非常に混乱している。
説教王は、彼自身のことを言う:
私(説教者)はエルサレムでイスラエルの王であった、天の下でなされている、すべてのことに関して知恵によって探求し、調べるように、ハートを尽くした。*(15)
エロヒム*(16)は、英語訳聖書では“主(Lord)なる神” に統一されている、主なる神の衣を光のように、そして天の幕のようにと主の偉大な働きと栄光について語るなかで、彼(説教者)は建設者のことにふれる。
建設者は水の中に彼の光り輝く高殿の梁を築く*(17)、
それは、混沌の水すなわち深みから宇宙を建設したセフィロトの神聖なホストのことである。モーゼやタレスは、地と水だけが、生命のある魂を生み出すことができ、この界層上で水が全ての本質であると言ったのは正しい。モーゼは秘儀参入者であり、タレスは哲学者すなわち科学者であった、当時これらの学問を表す語は同一であった。
ここでの秘められた意味は、水と地がモーゼ五書において、原初物質と地上での創造(女性)の本質を表している。 エジプトではオシリスが火、イシスが地球または同義語の水であった、ふたつの対局にある元素——互いに反対の性質である、そのことから共通の目的、すなわち発生の為にお互いに必要としていた。地球はその胚たちを発生させるために、太陽の熱と雨を必要とする。しかし、火と水そしてスピリット(霊)と質料などの生産のための特性は、物質的発生だけの象徴にすぎない。ユダヤ人のカバリストたちが、これらの諸元素を顕現されたものへの適用に限って象徴化して、それらを地球上の生命の発生のための表象として崇拝したのに対して、東洋の哲学は、それらを霊的な原型からの錯覚に基づく放射物だけだと気づき、その汚れた不神聖な考えが秘教の宗教的な象徴を損なうことはないとした。
◎混沌(カオス)は神(テオス)であり、しかもコスモスである
カオスは、他の箇所で示したようにテオスでありコスモスになる、それは空間であり宇宙のなかの全てのものの容器である。オカルトの教えが主張するように、それはカルデア人、エジプト人、そして他の全ての民族からトフ-ヴァー-ボフ、混乱と呼ばれた、なぜなら空間は創造の大いなる貯蔵所であり、そこから形態だけではなくアイディアまでもが生まれる、これらはロゴス、ことば、ヴェルブムあるいは音を通してしかその表現を受け取ることができない。
1、2、3、4の数字は、母すなわち[空間]からの連続した放射を表す、彼女は衣を下向き走らせ形作り、それを創造の七段階の上に広げた。*(18)、巻き上がった衣は、それ自体の上に戻り、一方の端が他方の端に無限に広がり繋がる、私たちが感知できる衣の側である4、3、2は示されたが、最初の数は得難い孤独へと消失していく。
...無限の時である父が母を生成させる、母は永遠のなかの無限空間である、そして持続する時間の区分であるマンヴァンタラのなかで、世界がひとつの大海になるその日に母は父を生成させる、それから母はナーラー[水 — 大いなる深み]になる、それは上でナラ[至高霊]が休み、動くためである、そのとき、あの1、2、3、4は降下して不可視世界に留まる、一方4、3、2、は可視世界の境界となって、父[時]の顕現に関係する。*(19)
これは、マハーユガに関係する数字のことを述べており、432の後に0をつけると、4,320.000になる。
◎百八つ
今や、それが単なる偶然の一致であっても、桁外れに奇妙なことだが、聖書のトフ-ヴァー-ボフすなわち“混沌”は、当然“母”なる深みあるいは空間の水である、そうであるならば、それらは同じ数値を示すはずである。なぜならカバラ文書には次のような記述が見られるからである:
「創世記」1章2節には天と地が“混沌と混乱”として語られている、それは“トフ-ヴァー-ボフ”の状況のことである、“そして、暗闇は深みの表面上にあった”、すなわちこれは“建設に用いられるべき完全な素材は編成化が欠如していた”と言われている。語順に従ったこれらの語の数値の順序、*(20)すなわち、各語を数字に置き換えると、6526654そして2386になる。技巧的な話法では、これらの数は一緒に雑にまぜられた鍵となる番号である、建設の胚であり鍵であるが、使用され要求される度に、ひとつ、またひとつと認識されるのである。それらは、偉大な宣言の最初の文章“大急ぎで神々は天と地を展開なされた。”と、すぐ後に対称的に続けられている。
トフ-ヴァー-ボフ[Thuvbhu 4566256 *(20)参照]の文字の数値を右から左へ順に掛け合わせ、その答えをそのまま並べ、更に左の数値に掛け合わせることを続けて並べると (a) 30、60、360、2160、10800、43200となる、あるいは特徴を表すように、桁をずらすことによって、3、6、36、216、108、432となる、今度は、この文字の数値を左から右へと変えて同じように並べると (b) 20、120、720、1440、7200、[43200]あるいは2、12、72、144、72、432、となって、どの数列も「432」という、古代で最も有名な数で終りとなる、このことは曖昧にされたが、大洪水の年代記上*(21)で露わになる。
これは数を利用するヘブライの語法が間違いなくインドからユダヤにもたらされたことを示すものである。見たところ、数列の最後の数、また別の他に組合せの数字は108や1008であり、これはヴィシヌの名前の数であり、ヨーガ行者の数珠玉の数が108であることに由来しているのである、そしてこの数はインドやカルデアの古代において、真に“有名”な数432に近く、インドの4,320,000年の周期に、432,000年はカルデア神聖王朝の存続時間に現れている。
脚注———————
*(14) ヴィシュヌを至高神であり宇宙を形作る神と見なすヴィシュヌ派は、ブラフマー“不滅”がヴィシュヌの臍からというよりは、むしろそれから生まれた蓮から飛び出したと主張する。 しかし、ここでの“臍”という語は、中心点、無限の数学的な象徴あるいは唯一無二のパラブラフマンを意味する。
*(15)伝道の書 第1章12. 13.
*(16) 誰でも知っていることを、ここで言う必要は恐らくないだろう。初期ギリシャ語、およびラテン語の聖書に使われている単語からプロテスタント聖書への単語の翻訳が正確ではないので、意味がしばしば歪曲されて“ヤハウェ”とか“エロヒム”の話があるところに“God(ゴッド)”が当てられた。
[追補・旧約聖書、詩篇. 104. 2,3節から・・・<あなた(主)は光を衣のように着ておられ!天を、幕のように広げておられます。水の中にご自分の高殿の梁を置き、雲をご自分の乗り物とし、風の翼に乗って走っておられます>]
*(18)私たちが頻繁に使う“創造”という用語の意味の誤解を避けるために、「黄金の門を通り抜けて」の著者の所見が明快で簡潔であるので引用する。“創造するという語句は、一般的に何もないところから何かを展開させる、という考えを伝えるとほぼ理解されている。これは明らかにそういう類の意味ではない。私たちは創造者に諸世界を作り出すための混沌を提供するように精神的に義務付けられているということである。社会生活における典型的な生産者である土の耕作者は、土地、空、雨と太陽といった素材を、そして土の中に蒔く種を手に入れなければならない。無からは何も生みだすことはできない。空間の性質を除外すると生産はできない、宇宙に対する私たちの欲求によって自然が形づくられる、自然形成のもとになる素材は背後に、向こうに、あるいは内側に存在する。”
*(19) 周期に関するスタンザ9の注釈を参照。
*(20)右から左に読めば、文字とそれらに対応する数字はこのようになる。“t,”4: “h.”5: “bh,”2: “v[u],”6: “v”6: “h,”5: “ ”v”or“w,” 6: そしてそれは“thuvbhu”、4566256すなわち“Tohu-vah-bohu.”となる
*(21) ラルストン・スキナー氏の手書きの文書
第25章おわり。
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訳者より・・・このシークレット・ドクトリン第3巻25章は、2016年12月に書いたSNS(mixi)日記を編集・修正してこちらにまとめたものです。
☆原書として、Kessinger Pub Co【Occultism Of The Secret Doctrine】 を参照しました。
☆シークレット・ドクトリン第三巻 加藤大典訳 文芸社 を参照しました。
☆聖書・新改訳 日本聖書刊行会発行 (1990年第2版)を参照しました。