H.P.B.著作の和訳を試みる & 関連の話題 blog

ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー (1831年 – 1891年) は、近代神智学を創唱しました。・・・主に彼女の代表作である「シークレット・ドクトリン」の和訳を試みています。

【秘密教義のオカルティズム】 — 8章「エノク書」、エノクについて・・・その2  

<原書・初版1897年発行>

   ーー「エノク書」とキリスト教ーー

       

           シークレット・ドクトリンのオカルティズム

            (第3巻) ― 8章

 

                     H.P.ブラヴァツキー 原著

                                                        アニー・ベサント   編著

                 *[角括弧]はアニー・ベサントによる追補*

 

 ◎エノク書キリスト教

 エノク書は、風、海、雹、霜、露、雷光、轟く雷鳴などを統轄している個々の天使たち動きを通じての諸元素の超自然的な支配の記録もしている。主な堕天使の名前も伝えられている、ヘブライ-カルデア人の呪術用の素焼の陶器に刻まれる呪文[魔術的な]中に、幾つかの未顕現諸動力の名が挙がっていることを我々は確認することができる。*(4)

 

 これらのカップに刻まれた「ハレルヤ」という言葉を我々も見ることができる。それは次のことを示している、

 

 古代シリア-カルデアの悪霊呼び出しに用いた呪文が、言語の栄枯盛衰を経て、現代の信仰復興論者特有な文句になった。*(5)

 

 編集者は、この後「福音書」と「使徒行伝」の様々な箇所から57の詩句を抜き出し、エノク書と類似している引用部分をとりあげ次のように言う:

 

 「ユダの手紙」の引用部分に集中的に注目したのは神学者たちであった、その理由は、この著者が預言者の名前を挙げていたからである、エノクと「新約聖書聖典の著者たちの間に累積する言語と思考の偶然の一致は、我々が比較照合した類似の過程で明らかにされた、この「セム系ミルトン」の著作が、福音書記者たちと使徒たち、あるいは彼らの名を書き込んだ人々が、復活、審判、不死、破滅などの概念や、さらに「人の子たち」への永遠の支配の下での普遍的な正義の支配の概念を借用してきた無尽蔵な源であったということである。そして福音書剽窃は「ヨハネの黙示録」で最大に達し、エノクの幻視を修正しキリスト教の教えに適用させている、その修正は黙示録的な予言の偉大な師、すなわちノアの洪水前の古代の長老の名前を預言したという崇高だが単純なことを見逃していた。*(6)

 

  真実に公正であるためには、僅かでも仮説が示される必要がある、現存する「エノク書」は、多くの「前キリスト教」や「後のキリスト教」による加筆や改ざんという展開があり、はるかに古い文書からの単なる転写にすぎない。現代の研究では、エノクが記した71章に、一昼夜を18の部分に分け、一年を18の部分にわけて、そのなかの12の部分が最も長い日を表したとしているのである、だがパレスチナでは1日が16時間であることは起こりえないとされている、翻訳者の大司教ローレンスは、次のように論評する:

 この著者が住んでいた地方は、最長の日が15時間半であり北緯41度以上でなければならなかった、またおそらく、北緯49度の地方では最長の日は正確に16時間であった。そして住んでいた国は、少なくともカスピ海黒海の北方地方となる...だが「エノク書」の著者は、おそらく、シャルマネセルが連れて去り、“ゴシェン川に近い、ハラやハボル、共に古代メソポタミア北方の地、そしてメディアの諸都市”に住まわせた一種族の一員であった。*(7)

 

 さらに、次のことが明らかになる

 「旧約聖書」が「エノク書」より優れているという内在的証拠を証明することはできない... 「エノク書」は、「人の子たち」、「選ばれた存在」、「メシア」たちが先に存在していたことを教える、それらは“秘密のうちに最初から存在し、*(8)太陽と諸(星座)宮が創造される前に、それらの名が「聖霊の主」の面前で呼び出されていた。”

 

 また著者は“その日、地球の上方で水の上をおおっていた他の「動力**」”と、創世記一章二節の言葉を比較して言う。*(9)[我々はそれとヒンドゥーのナーラーヤナ―すなわち “水の上を動くもの”とが、同様にあてはまると主張する。]こうして我々は「諸霊の主」、「選ばれた存在」、「第三の動力」を未来性の三位一体[トリムールティ(三神一体)]として予示しているように見える、おそらくエノクの理想的なメシアは、「人の子たち」の神聖な原初的な概念に重要な影響を及ぼしたとみられる、しかしアレキサンドリア学派の三位一体論による、他の“動力”への彼の不明瞭な言及を確認することに我々は失敗してしまった、なぜならば、エノクの幻視では特に、大多数の“動力の天使たち”で満ちているからである。*(10)

 

 オカルティストは、前述の“動力”を確認出来ないことなど皆無である、編者は彼の注目に値する見解を次のように付け加える:

 ここ迄で我々は「エノク書」が、ある偉大なセム[?]種族の「未知の者」により、キリスト紀元より前に発行されていたことを知った、「未知の者」は預言者治世の時代に自らが霊感を受けていると信じていた、ノアの洪水前の長老の名前を借りたのは、救世主的概念を持つ王国に関わる彼自身の熱狂的な予告を権威付けしようとしたからである。*(11)

 

 そして、彼の驚くべき書の内容が、「新約聖書」の構成のなかに自由に組み入れられてしまったことから分かったことは、著者がキリスト教の教えを予言し霊感を受けた預言者ではなかったとされて、幻影によって彼が認めた啓示は福音書記者と使徒によるものであったことになり、神およびキリスト教における人間の起源を含む他の結論も受け入れることとなり、彼は幻覚者であり狂信者であったことになる。*(12)

 

同編者の言葉による全ての結論は以下の通りである:

 啓示と断定された言葉と考えが、先に存在した著作のなかに見つかり、福音書記者と使徒により霊感を受けたものとして受け入れられたが、現代の神学者により偽書として分類された。*(13)

 これは、ボドリアン図書館の聖職者司書が、「エノク書」のエチオピア語文書の出版に気が進まなかったという説明である。

 

 脚注 ———————————————

*(4) 上記引用文中に

*(5) 前掲書、p14、注

*(6) 前掲書、p35

*(7) 前掲書、p13

*(8) 第七本質、最初の流出。

*(9) 前掲書のp37、p40

*(10) 前掲書、p40、p51

*(11) 「太陽」またはマンヴァンタリック年を表す

*(12) 前掲書、p41、p42

*(13) [前、p48]

 

**2018年11月17日訂正(Power、Force)

<訳者より・単語と用例>Power(動力)Force(力)の用例は以下の通り。第3巻25章東洋と西洋のオカルティズムより

 God is harmony, the astronomy of Powers and Unity outside of the World.

 「神」は調和であり、諸動力(パワー)の天文(宇宙)であり「世界」の外的「統一」である

 Eternal life is Motion equilibrated by the alternate manifestations of force.

 永遠の生命は、交互に反転するフォース(力)の様相によって釣り合っている「作用(動き)」である。

 

つづく。

 

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 ☆原書として、Kessinger Pub Co【Occultism Of The Secret Doctrine】 を参照しました。

 

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【秘密教義のオカルティズム】 — 8章「エノク書」、エノクについて・・・その1 

 <原書・初版1897年発行>

     ーー「エノク書キリスト教の源泉と基礎ーー

 

 シークレット・ドクトリンの第3巻だといわれている「シークレット・ドクトリンのオカルティズム」の前書きで、アニー・ベサントは次のように記していたー

   H.P.Bから私に与えられた原稿を、それぞれ別々の章として取り上げ、可能な限り順番に並べている。文法上の誤りの訂正と明らかな非英語的な慣用句を除いた以外、原稿はH.P.Bのものである。 それ以外の記述箇所はマークを付けて保存してほしい。いくつかのケースで、私が補った箇所があるが、そのような追加は[角括弧]で囲まれ、テキスト本文と区別できるようにした。・・・これらは秘密教義の第3巻の一部として出版するために私の手に渡された・・・この巻はH.P.Bによって残された論文を完成させる。・・・ 

 

      シークレット・ドクトリンのオカルティズム

            (第3巻) ― 8章

                     H.P.ブラヴァツキー 原著

                                                        アニー・ベサント   編著

                                        Aquamarith (ハテナ・名)    訳 

第8章

 「エノク書キリスト教の源泉と基礎

 「エノク書」とキリスト教

  エノクは諸人種を記している

  象徴的「エノク書

  オカルティストは、「聖書」を拒まない

 

 ◎「エノク書」はキリスト教の源泉と基礎

 シナゴーグユダヤ教礼拝堂)やユダヤ教は、「メルカヴァー」を大いに用いるが、「エノク書」は拒んだ、その理由は「ヘブライ聖典」に、最初から含まれていなかった、あるいはテルトゥリアヌスが考えたように、

 キリスト (救世主) について語る他の全聖典と同じくユダヤ人によって認められなかったからであろう。*(1)

 

 しかしこれらの理由はいずれも正しくはなかった。なぜなら、「エノク書」が単なる純粋なカバラの書というよりも、むしろ魔術と深く関係するものだったからである、サンヘドリン(ユダヤ議会)は関係ないであろう。今日、ラテン教会、プロテスタント教会各宗派の神学者は、「エノク書」を偽典として分類する。それにもかかわらず新約聖書の、特に使徒行伝および書簡には「エノク書」の思想と教義が多く含まれていて、いまもその教えは無修正でローマ教会、その他の諸教会から受け入れられ認められており、「エノク書」から文章全体を丸ごと取りいれている。エチオピア語の文書の訳者であるローレンス司教の主張によれば、この書の著者は、「偽エノク」の名でアラム語、またはシリア-カルデア語で執筆していた。

 

 その剽窃ぶりが非常に目立った為、ローレンス司教の翻訳の編集者であった「キリスト教の進化論」の著者が彼の書の序章で、珍しく示唆的な発言をすることを強いられた。記載された証拠により*(2)、この書(エノク書)が、キリスト教時代より前(2世紀でも20世紀でも構わない)に書かれたとわかった。 正しくは編者が主張したように、それは、

 

 偉大なるヘブライ人預言者が、奇跡的な正確さをもって、ナザレのイエスの来るべき教えを予言したのだろうか、王権裁判で「人の子たち」が勝利の帰還をして、永遠の幸福や永遠の炎を期待した歓喜する聖人や、震える罪人たちがいる最中に王座を占めるという、彼の概念を使ったセム族のロマンスなのだろうか。

 そしてこれらの天上界の幻が人間として神として受け入れられるかどうかにかかわらず、彼らが人類の運命に対する膨大な影響を2000年近くにわたって及ぼしてきたことから、宗教的真実に率直であり公平な求道者たちは、これ以上、エノク書キリスト教の啓示および進化の関係について問いただすことを遅らせることはできないのである。*(3)

 

脚注 ———————————————

*(1)「エノク書」、大司教ローレンスの翻訳書、序章 p5。

*(2) エチオピアエノク書の僅かな写本をブルースがアビシニアで見つけるまで、この書は1000年の間ヨーロッパに知られていなかった、そして1821年にボドリアン図書館(オックスフォード)の文書から、大司教ローレンスにより翻訳された。

*(3) 前掲書、p20

 

つづく。

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 ☆シークレット・ドクトリン(SD)第三巻の和訳が文芸社(加藤大典訳)から出版されていたので先日購入しました、この翻訳書の全部は読んではいないのですが、それぞれの内容が章ごとに構成されているので、順序通りに読まなくても良いかもしれません。

 英文科卒であるとか、海外留学や海外在住などの経験は全くありませんが、ブラヴァツキー夫人の著作が読みたいがために日本語訳にチャレンジしています、今回なんとなく気になった章から、原書と加藤氏の翻訳書も参考にして訳しました。

加藤氏(1933生まれだそうです)の訳書を参考にすることで、誤った解釈等に気づいたりと、大変勉強になりました、本当に有難く思います。

 

 ☆原書として、Kessinger Pub Co【Occultism Of The Secret Doctrine】 を参照しました。 

 ☆シークレット・ドクトリン第三巻 加藤大典訳 文芸社 を参照しました。

Occultism Of The Secret Doctrine

Occultism Of The Secret Doctrine

  • 作者: Helena Petrovna Blavatsky
  • 出版社/メーカー: Kessinger Pub Co
  • 発売日: 2004/05/30
  • メディア: ペーパーバック
 

 

シークレット・ドクトリン 第三巻(上) ――科学、宗教、哲学の統合――

シークレット・ドクトリン 第三巻(上) ――科学、宗教、哲学の統合――

  • 作者: 原著者:H・P・ブラヴァツキー編著者:アニー・ベサント訳者:加藤大
  • 出版社/メーカー: 文芸社
  • 発売日: 2016/08/01
  • メディア: 文庫
 

 

 ☆このシークレット・ドクトリン第3巻の第8章−その1〜その5は、2017年1月に書いたSNS(mixi)日記を編集・修正してこちらにまとめたものです。

 

 

 【秘密教義】 第2巻 第2部ー18章 “堕天使”の神話、そのさまざまな面について。(その4)

    <<1888年に出版された H.P.ブラヴァツキー の著作>>

 ーー聖書の詐欺的な翻訳。ーー以前は普遍聖典だったヴェーダ。ーー

 

        シークレット・ドクトリン【秘密教義】 

         第2巻―第2部 ―18章  481頁~

                      H.P.ブラヴァツキー 著

                                                 

Page 481

◎聖書の詐欺的な翻訳。

 この事実は否定できない。 ヴォシウス(偶像(De Idol)., II., 373) は、ミカエルが異教徒たちのマーキュリー(水星)であることを証明し、モーリーと他のフランスの作家が彼のことを裏付ける、“偉大な神学者の言葉によれば、マーキュリー(水星)と太陽は一つである、”(?)その通り、水星が知恵のヴァーブム(太陽)のに近くにいるので、水星が吸収されて、混乱するだろう“と彼らは考える。

 

 この“異教徒”の見解は、元の使徒行伝(英訳は無用)に示されているように、紀元後1世紀から認められた。多くは、ギリシャや他の国々のマーキュリーすなわちミカエルのことであり、ルステラの住人がポール(Paul)とバルナバス(Barnabas)をマーキュリーとジュピターと間違えたとき – “神々は人々の似姿で私たちに降りて来た”- 12節(14)で次のように付け加えている:“彼らは、バルナバスのゼウスとポール、ヘルメス(またはマーキュリー)と呼んだ、なぜなら、彼は‘語り部の首長’ではなく言葉(ヴァーブム)の首長だったので、”著述者に誤って翻訳された、そして改訂版英訳聖書のなかでさえも繰り返された。

 

 ミカエルは先見性(Vision)の天使であり、神の子であり、“人間の息子に似ている”。それはグノーシス派のへルメス・キリストスであり、エジプト人のアヌビス-シリウスであり、アメンティ オシリスの相談役である、そして、その者は特定のグノーシス主義の宝石類を着装したライオン頭のミカエル・レオントイド[オフィオモルフォス]であり、彼の父イルダバオテのようである。(王のグノーシスを参照)。

 

 いまローマカトリック教会はこれを受けて暗黙のうちに同意し、多くの作家が公然と宣誓している。そしてユダヤ人がエジプト人の銀と金の宝石を“完全に駄目にした”ように、彼らの教会の目に余る“借用”を否定することができず、教会の年長者たちの象徴を“完全に駄目にした”と、彼らは事実を非常に冷たく真顔で説明する。

このように、古い異教徒の考えのキリスト教のドグマによる、この繰り返しで“人によって行われた伝説的な剽窃”を目にすることに作家たちは、まったく臆病だった、作家たちは、ほぼ完璧な類似の単純な解決策から遠く離れて、全く別の原因、すなわち“超人的な起源の先史的な剽窃”に起因するのだと考える。

 

 読者がそのことを確信するならば、ド・ミルヴィルが記した同書第5巻に戻らなければならない。この著者は、ローマ教会から公式に認められた擁護者であり、すべてのイエズス会の学びによって助けられたことに注意しよう。

518頁で既読: —

 

 私たちは、様々な半神たち、そして異教徒(出生の瞬間から運命を定められた)の極めて歴史的な英雄たちを不名誉にする類人猿に、世界全体は曲解させられなければならなかったのだと指摘する;私たちは彼らが完璧な(immaculate)*母親から生まれているのを辿った;私たちは、彼らが彼らの発祥地で蛇を絞めつけるのを見た、デーモンと戦い、奇跡を行い、殉教者として死に、低い世界に降りて、死者の中から再び上昇するのを見た。

 

Page 482  

 そして私たちが大変失望していることは、神話と象徴の偶然の一致を理由に臆病で内気なキリスト教徒が、すべてのそのような同一物(アイデンティティ)を説明するように強制されるのだと感じなければならないことである。彼らは明らかに救い主のこれらの言葉を忘れてしまった:“私に先行したものすべてが、泥棒と強盗だ”と、いかなる不合理な否定がなくてもすべてを説明する、そして私がこれらで注釈した言葉は、‘福音書は崇高なドラマだが、悪党たちによって約束された時以前にパロディ化されている。’ ということを言い表している。”

 “悪党たち”(ならず者たち)は、もちろんデーモンたちであり、そのマネージャーはサタンである。 今や、これが困難な状況から出る最も簡単で最も崇高な方法である!聖職者ランディ博士(プロテスタント・ド・ミルヴィル)は、彼の“記念碑的キリスト教”での幸せな提案に従い、ミュンヘンのセップ博士による、イエスの神性と、他の全ての救世主における悪魔の起源を証明するために書かれた著作のまねをした。

 

 非常に大規模な、組織的で集団的な剽窃(それは最大規模で数世紀に渡った)、は、もう一つの剽窃(今回は第4のゴスペルの中)によって説明した。 “そのような全ては、これまでに私に先行したものである”は “エノク書”89に書かれた言葉の逐語的な繰り返しである。ボドリアン図書館の蔵書である、大司教ローレンス(“キリスト教の進化”の著者であり編集者)によるエチオピア語群文書からそれへの翻訳の序文では次のように述べている。: — 

 

 "エノク書の改訂にあたって. . . . . 良い羊飼いが、雇われた守護者や凶暴なオオカミから羊を救い出した寓話は、4番目の福音伝道者によってエノク書89から明らかに借用されている、そしてそこでは著者は羊飼いを殺害と描写している. . . 彼らの主の出現の前の羊、そして、このように、使徒ヨハネの寓話でこれまでの神秘的な「通過」の本当の意味を明らかにしている — ‘これまで私に先行したものはすべて、泥棒と強盗である’ — 私たちが現在エノクの寓意的な羊飼いへの明らかな言及を見つける語である。

 

 新約聖書(欠陥韻文の代わり)から借りたのが、エノクであると主張するのはもはや遅すぎる。ユダ(14-15)は彼の10,000人の聖者と共に主が来ることについてエノクから正確にことば通りに長い一節を引用し、特に予言者の名前を挙げて、その源を認める。この“預言者と使徒との類似は、神の啓示として受け入れられた使徒書簡の著者の目には、エノク書が、大昔の古老の霊感を受け生み出されたという論争を向こうがわに置いたと映った. . .” そしてさらに “ . . . エノクと新約聖書の執筆者のなかの言語と思想の蓄積された偶然の一致 . . .セム族のミルトンの仕事は、福音伝道者と使徒、あるいはその名を書いた人々が、復活、審判、不死、堕落、そして、人の子の永遠の支配下の公正さの普遍的な支配の概念を借りた無尽蔵な源であったことをはっきりと示す。

 

Page 483

◎以前、普遍聖典だったヴェーダ

 エノクの先見性(ビジョン)をキリスト教に適応させた、福音主義的な剽窃ヨハネの黙示録において最高潮に達した、これは偉大な師の名前で預言されていた、黙示録的予言の偉大な師の崇高さや平易さを見逃している。” (Int.35)

 

 まさに“ノアの大洪水前”のこと;しかし文書の文体が歴史的な年代以前に、ほんの数百年または千年ほどしか示さないならば、それはもはや来るべき出来事の最初予測ではなく、有史以前の宗教の幾冊かの聖典の複製である. . . . . “クリタ時代に、カピラや他(啓示を受けた賢者たち)の姿のビシュヌ、. . . それはエノクのように真の知恵を世界に伝える。トレタ時代、彼は普遍的な君主(転輪聖王またはエノクの‘永遠の王’)の姿で邪悪な者を拘束し、3つの世界(または諸種族)を保護する。ドワパラ時代、ヴェーダ・ヴィシャーの人物である彼はヴェーダを4つに分け、それを何百(サタ)に分け与える。”

 

 まさに;それが書かれる前に、最も古いアーリア人ヴェーダは、アトラント・レムリア人たちのすべての国に伝わり、現存するすべての古い宗教の最初の種子として蒔かれた。決して滅びない智慧の樹の枝は、ユダヤ-キリスト教のうえにさえ枯れ葉を散らした。カーリーの終わりには、私たちの現時代、ヴィシュヌ、または“永遠の王”がカルキとして現れ、地球に正しさを再確立する。その時に生きる人々のマインドは呼び覚まされ、水晶と同じぐらい透明になるだろう。“そのような独特な時間(第六人種の)によってこのように変えられた人々は、他の人間たちの種子となり、純粋なクリタ時代の法則に従う人種を生み出すだろう”;それはすなわち、完璧な(immaculate)*両親から生まれた“ブッダたち”人種であり “神の子たち”である第七番目の人種になるだろう。

 

  ——(A 終わり)——

 

*<訳者・単語チェック>immaculate・・・しみひとつない、汚れのない、清潔な、完璧な、無垢の、純潔な、等の意味。 単語使用例Immaculate Conceptionはカトリックの用語で(聖母マリアの)無原罪懐胎(説)の意味。 <講談社英和中辞典参照>

   ———————

 

 ☆個人的に興味があった章の一部のみの記載です、素人の抄訳で誤訳もあるかと思います、不明な箇所は原著の頁を御覧ください。

 ☆原書として、Theosophical University Press版 【 The Secret Doctrine Vol.2】 を参照しました。

 

 ☆以下に英文も掲載しました、ご参考まで。

Vol. 2, Page 481   FRAUDULENT TRANSLATION OF THE BIBLE.

This fact is undeniable. Vossius (De Idol., II., 373) proves that Michael is the Mercury of the pagans, and Maury and other French writers corroborate him, and add that “according to great theologians Mercury and the Sun are one,” (?) and no wonder, they think, since “Mercury being so near the Wisdom of the Verbum (the Sun), must be absorbed by and confounded with him.”

This “pagan” view was accepted from the first century of our era, as shown in the original Acts of the Apostles (the English translation being worthless). So much is Michael the Mercury of the Greeks and other nations, that when the inhabitants of Lystra mistook Paul and Barnabas for Mercury and Jupiter — “the gods have come down to us in the likeness of men,” — verse 12 (xiv.) adds: “And they called Barnabas Zeus, and Paul, Hermes (or Mercury), because he was the leader of the word (Verbum),” and not “the chief speaker,” as erroneously translated in the authorised, and repeated even in the revised, English Bible. Michael is the angel in the Vision, the Son of God, “who was like unto a Son of Man.” It is the Hermes-Christos of the Gnostics, the Anubis-Syrius of the Egyptians, the Counsellor of Osiris in Amenti, the Michael leontoid ophiomorphos of the Ophites, who wears on certain Gnostic jewels a lion head, like his father Ildabaoth. (See King’s Gnostics.)

 

Now to all this the Roman Catholic Church consents tacitly, many of her writers avowing it publicly. And, unable to deny the flagrant “borrowing” of their Church, who “spoilt” the symbols of her seniors, as the Jews had “spoilt” the Egyptians of their jewels of silver and gold, they explain the fact quite coolly and as seriously. Thus the writers who were hitherto timid enough to see, in this repetition by Christian dogmas of old Pagan ideas, “a legendary plagiarism perpetrated by man,” are gravely assured that, far from such a simple solution of the almost perfect resemblance, it has to be attributed to quite another cause: “to a prehistorical plagiarism, of a superhuman origin.”

If the reader would know how, he must kindly turn to the same fifth volume of de Mirville’s work. Please note that this author was the official and recognised defender of the Roman Church, and was helped by the learning of all the Jesuits. On page 518 we read: —

“We have pointed out several demi-gods, and also very historical heroes of the pagans, who were predestined from the moment of their birth, to ape while dishonouring it, the nativity of the hero, who was quite God, before whom the whole earth had to bow; we traced them being born as he was, from an immaculate mother; we saw them strangling serpents in their cradles, fighting against demons, performing miracles, dying as martyrs, descending to the nether world and rising again from the dead.

And we have bitterly deplored that timid and shy Christians should feel compelled to explain all such identities on the ground of

Vol. 2, Page 482  

coincidence of myth and symbol. They forgot apparently these words of the Saviour: ‘All that came before me are thieves and robbers,’ a word which explains all without any absurd negation and which I commented in these words ‘The Evangel is a sublime drama, parodied and played before its appointed time by ruffians.’ ”

The “ruffians” (les droles), are of course demons whose manager is Satan. Now this is the easiest and the most sublime and simple way of getting out of the difficulty! The Rev. Dr. Lundy, a Protestant de Mirville, followed the happy suggestion in his “Monumental Christianity,” and so did Dr. Sepp of Munich in his works written to prove the divinity of Jesus and the Satanic origin of all other Saviours.

 

So much greater the pity that a systematic and collective plagiarism, which went on for several centuries on the most gigantic scale, should be explained by another plagiarism, this time in the fourth Gospel. For the sentence quoted from it, “All that ever came before me, etc.,” is a verbatim repetition of words written in the “Book of Enoch” lxxxix. In the Introduction to Archbishop Lawrence’s translation of it from an Ethiopic MS. in the Bodleian Library, the editor, author of the “Evolution of Christianity,” remarks: —

“In revising the proof-sheets of the Book of Enoch . . . . . the parable of the sheep, rescued by the good Shepherd from hireling guardians and ferocious wolves, is obviously borrowed by the fourth Evangelist from Enoch, lxxxix., in which the author depicts the shepherds as killing . . . the sheep before the advent of their Lord, and thus discloses the true meaning of that hitherto mysterious passage in the Johannine parable — ‘All that ever came before me are thieves and robbers’ — language in which we now detect an obvious reference to the allegorical shepherds of Enoch.”

It is too late in the day to claim that it is Enoch who borrowed from the New Testament, instead of vice versa. Jude (14-15) quotes verbatim from Enoch a long passage about the coming of the Lord with his 10,000 saints, and naming specifically the prophet, acknowledges the source. This “parallelism between prophet and apostle, have placed beyond controversy that, in the eyes of the author of an Epistle accepted as divine revelation, the Book of Enoch was the inspired production of an antediluvian patriarch . . . ” and further “ . . . the cumulative coincidence of language and ideas in Enoch and the authors of N.T. Scripture, . . . clearly indicates that the work of the Semitic Milton was the inexhaustible source from which Evangelists and Apostles, or the men who wrote in their names, borrowed their conceptions of the resurrection, judgment, immortality, perdition, and of the universal reign of righteousness under the eternal dominion of the Son of Man.

This Evangelical plagiarism culminates in the Revelation of John, which adapts the visions

 

Vol. 2, Page 483   VEDAS, ONCE UNIVERSAL.

 

of Enoch to Christianity, with modifications in which we miss the sublime simplicity of the great Master of apocalyptic prediction, who prophesied in the name of the antediluvian Patriarch.” (Int. xxxv.)

“Antediluvian,” truly; but if the phraseology of the text dates hardly a few centuries or even millenniums before the historical era, then it is no more the original prediction of the events to come, but, in its turn, a copy of some scripture of a prehistoric religion. . . . . “In the Krita age, Vishnu, in the form of Kapila and other (inspired sages) . . . imparts to the world true wisdom as Enoch did. In the Treta age he restrains the wicked, in the form of a universal monarch (the Chakravartin or the ‘Everlasting King’ of Enoch*) and protects the three worlds (or races). In the Dwapara age, in the person of Veda-Vyasa, he divides the one Veda into four, and distributes it into hundreds (Sata) of branches.”

Truly so; the Veda of the earliest Aryans, before it was written, went forth into every nation of the Atlanto-Lemurians, and sowed the first seeds of all the now existing old religions. The off-shoots of the never dying tree of wisdom have scattered their dead leaves even on Judaeo-Christianity. And at the end of the Kali, our present age, Vishnu, or the “Everlasting King” will appear as Kalki, and re-establish righteousness upon earth. The minds of those who live at that time shall be awakened, and become as pellucid as crystal. “The men who are thus changed by virtue of that peculiar time (the sixth race) shall be as the seeds of other human beings, and shall give birth to a race who shall follow the laws of the Krita age of purity”; i.e., it shall be the seventh race, the race of “Buddhas,” the “Sons of God,” born of immaculate parents.

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 【秘密教義】 第2巻 第2部ー18章 “堕天使”の神話、そのさまざまな面について。(その3)

    <<1888年に出版された H.P.ブラヴァツキー の著作>>

 

     ーー神も悪魔(デビル)、ともにメタトロン。ーー

 

        シークレット・ドクトリン【秘密教義】 

         第2巻―第2部 ―18章  479頁~

                      H.P.ブラヴァツキー 著

                                                 

Page 479

◎神も悪魔(デビル)、ともにメタトロン

 

 キリストが他の神や死人と同じように彼のフェルエーを持っているという信念を教会は、積極的に受け入れている。ド・ミルヴィルは次のように記した:“私たちには、旧約聖書に登場する、ヴァーブム(?)、あるいは第二のヤハウェという二人の英雄がいる、第二のヤハウェの顔(‘存在’プロテスタントが翻訳)は両方を形作っている、しかしひとつでありながら、ふたつはまだ存在していて謎である、それはマズダー教徒のフェルエーズの教義を私たちが学ぶ前に解決できなかった謎であり、そのフェルエーがスピリチュアルな潜在力、直感のイメージや特質、魂の守護者であることを学んだ。”(アカデミー回顧録、第五巻、516ページ)これはほぼ正しい。

 

 カバリストたちは他の不条理、なかでも、メタトロンという言葉がメタ、スローンに分けられており、それが「王座の近く」を意味するものだと主張している。そのメタの意味は “向こうに”と“近くに”という正反対の意味である。これは私たちの議論において非常に重要である。聖ミカエル、そして、キュス・ユ・デウスは、目に見えない世界を可視化し客観的に翻訳する者である。

 

 彼らは、さらにローマカトリック教会と並んで、聖書的およびキリスト教的神学には、“大天使やセラフィム、ミカエルよりもさらに高い天上界の、個の存在(三位一体の後の)”はないのだと述べている。ドラゴンを征服する者は、“神聖なる民兵組織、惑星の守護者、星々の王、サタンの殺戮者であり、最も強力な主たる司祭」である。”

 

 これらの紳士的で神秘的な天文学において彼 "征服者アフリマン(アーリマン)は太陽の火の代わりに水を浴び、惑星の王座を奪った。 そして、キリスト・太陽の守護者である彼は自らの大師にとても近づいていて、“彼と彼がひとつになっているように見える、”. . . . プロテスタントの言葉(ヴァーブム)との融合のため、彼らカルバンの間で二重性を完全に失って終了した、そしてミカエルは見えなかったが、大師だけは見た”とアッベ・カーロンは書いている。 ローマカトリック教徒、特にカバリストたちはよく知っていて、この二元性を世界に説明する人々であり、教会の選ばれたものを讃美する手段を与える、そして彼らのドグマのやり方で、これらのすべての神々を拒否し呪うのかもしれない。

 

 このように同じ称号と同じ名前が神と大天使に与えられる。 どちらもメタトロンと呼ばれる、ゾハールによれば、“大師と使者”と同じ意味で使われているように、どちらも、他人に話すときには、ヤハウェの名が付けられている。両方とも外観は天使である、なぜならば私たちはそのように知らされているからである、そのうえ、その“単語”が“神の本質のイメージと外観(または存在)”とされている、一方で救世主についてイスラエル人に話すとき、イザヤ(?)は、“彼らに存在する天使が彼らの苦しみを救った” – “だから彼は救い主だった”とする – 彼(ミカエル)は、“主の様相の王子、主の栄光”と非常に明示的(*5)に呼ばれている。(ヤハウェとミカエルは)両方とも「イスラエルの案内者である(†6). . . 主の軍隊の首長、魂の最高の裁判官であり、さらにはセラフスの裁判官でもある。”(‡7)

 

 上記の全てはローマカトリック教徒によって様々な書の根拠だとして与えられている、したがって正統でなければならない。それがゾロアスターが予期しなかった目的でローマ・カトリック教の教義に利用されたように、いくつかの表現は巧妙な神学者と詭弁家によってフェルエー(§この語はゼンド・アベスタからフランスのとある作家たちによる借用)という言葉が意味するものを示すために解釈されている。

 

 ベンディダードのファーガード19の(14節)で、それは述べられている、 “祈りを、ああ、ツァラトゥストラ! 私のファルヴァルシ、その方はアフラ・マズダー、最大で、最高なる、すべての存在のうち最も公正で、最も濃密な、最も知的であるもの、. . . .その魂は聖なる言葉である”(マスラ・スペンタ)。 フランスの東洋学者たちはファルヴァルシを「フェルエー」と翻訳する。

 

 いまフェルエー、あるいはファルヴァルシは何を示すのか? 一部のマズダ教徒の書物(例えばオルマズド・アフリマン、112,113(§8))では、ファルヴァルシは内的な不滅の人(または生まれ変わるエゴ)であることは明白である、肉体以前に存在し、人々より長生きし、(肉体という)衣を着ることになる。“ファルヴァルシは人間だけでなく、神々、空、火、水、植物にも授けられた”(ベンディダード入門、 J.ダルメストテーターによる)。

 

 これは明らかに、フェルエーが神、動物、植物、さらには要素のいずれかの“スピリチュアルな対応物”であることがわかると明らかにする、肉体の魂、すなわち肉体の粗野な創造の精錬された純粋な部分に生じるのだろう。したがってアフラ・マズダーツァラトゥストラに彼自身ではなく彼のファルヴァルシを呼び出すことを勧める(アフラ・マズダー); すなわち、ゾロアスター自身のアートマン(またはキリストス)のものであり、偽りのない個人的な外観ではなく、非個人的かつ真の神性の本質である。 これはかなり明確である。

 

 ローマカトリック教徒たちが、彼らの神と天使の間に、神格とその側面に、あるいは古い宗教の神との間に想定される違いを築き奪い取ったのは、この神聖で霊妙な(エーテル的な)原型である。このように、マーキュリー、ヴィーナス、ジュピター(神々や諸惑星にもかかわらず)デビルたちと呼んでいる間、彼らは依然として彼らのキリストのフェルエーである同じマーキュリーをつくる。

 

脚注 ———————————————

(*5) イザヤ、63。 8-9。

(†6) メタトロー、そして、[[ヘゲモン]]。

(‡7) “外観や言葉の表現”、18ページ、ド・ミルヴィル。

(§8)個の不滅の側面、人より長寿なそれは、ヴェンディダード“ファルヴァルシ”で呼ばれる、オカルティストによれば、それは高位自我、または神の二重性である。

 

   ———————

 (続く)

 

 ☆個人的に興味があった章の一部のみの記載です、素人の抄訳で誤訳もあるかと思います、不明な箇所は原著の頁を御覧ください。

 ☆原書として、Theosophical University Press版 【 The Secret Doctrine Vol.2】 を参照しました。

 ☆以下に英文も掲載しました、ご参考まで。

Vol. 2, Page 479   GOD AND DEVIL, BOTH METATRONS.

The Church accepts positively the tenet that Christ has his Ferouer as any other god or mortal has. Writes de Mirville: “Here we have the two heroes of the Old Testament, the Verbum (?), or the second Jehovah, and his face (‘Presence,’ as the Protestants translate) forming both but one, and yet being two, a mystery which seemed to us unsolvable before we had studied the doctrine of the Mazdean ferouers, and learnt that the ferouer was the spiritual potency, at once image, face, and the guardian of the Soul which finally assimilates the ferouer.” (Memoires a l’Academie, Vol. v., p. 516.) This is almost correct.

Among other absurdities, the Kabalists maintain that the word metatron being divided into meta, thronon, means near the throne. It means quite the reverse, as meta means “beyond” and not “near.” This is of great importance in our argument. St. Michael, then, the quis ut Deus, is the translator, so to speak, of the invisible world into the visible and the objective.

 

They maintain, furthermore, along with the Roman Catholic Church, that in the Biblical and Christian theology there does not exist a “higher celestial personality, after the Trinity, than that of the Archangel or the Seraphim, Michael.” According to them, the conqueror of the Dragon is “the archisatrap of the sacred militia, the guardian of the planets, the King of the Stars, the slayer of Satan and the most powerful Rector.”

In the mystic astronomy of these gentlemen, he is “the conqueror of Ahriman, who having upset the sidereal throne of the usurper, bathes in his stead in the solar fires”; and, defender of the Christ-Sun, he approaches so near his Master, “that he seems to become one with him . . . . Owing to this fusion with the Word (Verbum) the Protestants, and among them Calvin, ended by losing sight entirely of the duality, and saw no Michael but only his Master,” writes the Abbe Caron. The Roman Catholics, and especially their Kabalists, know better; and it is they who explain to the world this duality, which affords to them the means of glorifying the chosen ones of the Church, and of rejecting and anathematizing all those Gods who may be in the way of their dogmas.

 

Vol. 2, Page 480  

Thus the same titles and the same names are given in turn to God and the Archangel. Both are called Metatron, “both have the name of Jehovah applied to them when they speak one in the other” (sic) as, according to the Zohar, the term signifies equally “the Master and the Ambassador.”

Both are the Angel of the Face, because, as we are informed, if, on the one hand, the “Word” is called “the face (or the Presence) and the image of the substance of God,” on the other, “when speaking of the Saviour to the Israelites, Isaiah (?) tells them that “the angel of his presence saved them in their affliction” — “so he was their Saviour.”(*5) Elsewhere he (Michael) is called very plainly “the Prince of the Faces of the Lord, the glory of the Lord.” Both (Jehovah and Michael) are “the guides of Israel(†6) . . . chiefs of the armies of the Lord, Supreme Judges of the souls and even Seraphs.”(‡7)

The whole of the above is given on the authority of various works by Roman Catholics, and must, therefore, be orthodox. Some expressions are translated to show what subtle theologians and casuists mean by the term Ferouer,§ a word borrowed by some French writers from the Zend Avesta, as said, and utilized in Roman Catholicism for a purpose Zoroaster was very far from anticipating. In Fargard XIX. of the Vendidad it is said (verse 14), “Invoke, O Zarathustra! my Farvarshi, who am Ahura Mazda, the greatest, the best, the fairest of all beings, the most solid, the most intelligent, . . . . and whose soul is the Holy Word” (Mathra Spenta). The French Orientalists translate Farvarshi by “Ferouer.”

 

Now what is a Ferouer, or Farvarshi? In some Mazdean works (e.g., Ormazd Ahriman, §(§8) 112, 113), it is plainly implied that Farvarshi is the inner, immortal man (or that Ego which reincarnates); that it existed before its physical body and survives all such it happens to be clothed in. “Not only man was endowed with the Farvarshi, but gods too, and the sky, fire, waters, and plants.” (Introduction to the Vendidad, by J. Darmesteter). This shows as plainly as can be shown that the ferouer is the “spiritual counterpart” of whether god, animal, plant, or even element, i.e., the refined and the purer part of the grosser creation, the soul of the body, whatever the body may happen to be. Therefore does Ahura Mazda recommend Zarathustra to invoke his Farvarshi and not himself (Ahura-Mazda); that is to say, the impersonal and true Essence of Deity, one with Zoroaster’s own Atman (or Christos), not the false and personal appearance. This is quite clear.

 

Now it is on this divine and ethereal prototype that the Roman Catholics seized so as to build up the supposed difference between their god and angels, and the deity and its aspects, or the gods of the old religions. Thus, while calling Mercury, Venus, Jupiter (whether as gods or planets) Devils, they yet make of the same Mercury the ferouer of their Christ.

This fact is undeniable. Vossius (De Idol., II., 373)

Footnote(s) ———————————————

(*5) Isaiah, lxiii. 8-9.

(†6) Metator and hegemon.

(‡7) “La Face et le Representant du Verbe,” p. 18, de Mirville.

( (§8) That which is called in the Vendidad “Farvarshi,” the immortal part of an individual, that which outlives man — the Higher Ego, say the Occultists, or the divine Double.

 

 

【秘密教義】 第2巻 第2部ー18章 “堕天使”の神話、そのさまざまな面について。(その2) 

  <<1888年に出版された H.P.ブラヴァツキー の著作>>

         ーー悪魔(デビル)の起源ーー

   

     シークレット・ドクトリン【秘密教義】 

         第2巻―第2部 ―18章  477頁~

                      H.P.ブラヴァツキー 著

 

Page 477  悪魔(デビル)の起源

 過去の多くの根深い成り行きを許して、存在するすべての創造主であると見なされてきた最初の「智慧-神」の変容を、邪悪な天使と結びつける根源的な考え方を表に持ち出すことは許されたことではないだろう、邪悪な天使とは、蹄と尾を持つ愚かな角を持つ二足歩行の、半身ヤギと半身サルであろう?エジプト、インド、カルデアの異教徒のデーモンたちをキリスト教徒の悪魔(デビル)と比較するためにより道をする必要はない。そのような比較は不可能である。しかし、私たちは、キリスト教徒のデビルの伝記、カルデア-ユダヤ民族(?) (Chaldeo-Judaean)神話からの転載に目を通すために立ち止まろうか: —

 

 この化身の根本的な起源、—それは諸天と地球における- 宇宙の在力の混沌と永遠の争いと闘争におけるアッカドの概念に基づいている。 彼らのシルク・ムルダグ(Silik-Muludag)すなわち“すべての神々の中の神”、“地上人の慈悲深い守護者”は、バビロニア人ネブによって、知恵の偉大な神であるヘア(またはエア)の息子と呼ばれた。両方の人々、ヒンドゥー教の神々の場合のように、 彼らの神は慈善と悪行の両方を行った。

 

 <訳者・注>Silik-muludag(Akkad)抽象的な神の知恵の子孫である、すべての神の中の神 - 宇宙の澄み切った海に住むアッカド人によって表現された、目に見えない大きな神 - 宇宙精神。

 

 明確な当然の報いのなかの悪と罰はカルマの代理人であり、また悪は善の僕であった(ヒバート・レクチャーLect 1887、101-115頁)。 カルデア-アッシリアのタイルを読むことは、疑念の悪影響を超えて今それを実証したということである。私たちはゾハールのなかにも同じ考えを見つけた。サタンは息子であり、神の天使であった。すべてのセム系諸国では、地球の霊は、諸天の霊と同じ彼自身の領域にある創造主であった。彼らは双子の兄弟であり、ひとつの中の二つではないときでも、その機能において交換可能であった。

 

 私たちが創世記で見つけたものは、これまでに解読された小さなものでさえも、カルデア-アッシリアの宗教的信条には無かった。創世記の偉大な“深遠な顔”は、トフ-ボウのなかの“深み”、“原初の空間”、またはバビロニア人の混沌の中でたどる事ができる。創世記の第一章で智慧の(大いなる目に見えない神)と呼ばれている“神のスピリット(霊)”は、空間の海で、アッカド人のような古いバビロニア人のために存在していた。ベロッソスによって記述されていた時代に、この海は地球の表面上の目に見える水になった、それは偉大な母、エアの母、すべての神々の結晶の居住地であり、それは後の偉大なドラゴン・ティアマット、海の蛇になった。発展の最後の段階は、ドラゴン(デビル!)と共にあるベルの大きな闘いであった。

 

 神がデビルを呪ったというキリスト教の考えはどこから来たのだろうか? 彼がいたユダヤ人の神は、サタンを呪うことを禁じている。法律(モーセ五書とタルムード)が、異教徒の神々であっても敵として呪うことを不当だと禁じているとフィロ・ユダエウスとヨセフスは、述べている。“汝は、神々を罵るべきではない”と、モーゼの神は言った(出エジプト記12章28節)、“すべての国に分けた”のは神である((申命記4。 19)。 “尊厳)”(神々)の悪を話す人々は、ユダ(8)によって“汚れた夢想家”と呼ばれている。大天使ミカエルでさえ、魔法使い(デビル・悪魔)を非難することはしないが、“主は汝を叱責する”(同書9) 最後に同じことがタルムードでも繰り返されている (*2)“サタンは、毎日彼を罵った或る人に或る日現れて、彼に言いった:‘これをしたのは何故か?’神自身が私を呪うことなく、単につぎのように言うだけだった 'サタンよ、主は汝を叱責する。'”(†3)

 

 タルムードのこの僅かな情報は明らかに2つのことを示している。(a)聖ミカエルはタルムードの“神”と呼ばれ、他の誰かが“主”と呼ばれている。(b)サタンは神であり、 “主”でさえも恐れている。

 

 私たちがゾハールと他のカバラ主義の書物で読みとれるのは、この“人物”とは単にカルマの法とカルマの武器である抽象的な悪の人格化であるということを明白に示していることである。“サタンはいつも人に近づき、人間と織りなす”と言われているのは、私たちの人間性と人間そのものである。

 

 古代のあらゆる偉大な宗教における、それがロゴス・デミウルゴス(第2ロゴス)、または達したマインド(マハー)からの最初の放射であることは、博識な象徴学者間では、よく知られている事実である、 つまり、その後の進化の仕組みにおいて、個と個の相関関係と呼ばれることの重要な鍵である。創造と存在の劇的な状況にあって、ふたつの役割を演じる人類発生論、神学、宇宙発生論の神秘的な象徴のなかにみえるロゴス、すなわち純粋な人間性の人格、そしていわゆるアバターの神秘的な非人格性を演じるロゴスは、グノーシスによってキリストスと呼ばれる普遍的なスピリットと、マズダ教徒の哲学におけるアフラ・マズダのファルヴァルシ(またはフェルエー)との間の関係を明らかにする。

 

 神統記の下段には、より下層の階層の天体がそれぞれファルヴァルシ(Farvarshi)または天体の “二重性”を持っていた。これは、より神秘的でカバラ主義の公理である“ 悪魔の逆数(Deus est Demon inversus)”と同じである。 しかし、“悪魔(デーモン)”という言葉は、ソクラテスの場合と同じく、古代全体を通して与えられた意味のスピリット(霊)であり、守護者スピリット(霊)のための、サタン的なデビルではなく“天使”である、 神学はそれを有している。ローマカトリック教会は、キリストの唱歌者として聖ミカエルを受け入れることによって通常の論理と一貫性を示している、聖トーマスによって聖ミカエルは “彼の守護天使”であると証明された、そしてミカエルとその同義語の原型を、 例えばデビルたちやマーキュリーのようなものであるとした。

 

脚注 ———————————————

(*2) イシスUnveiled第二巻、487、以下参照

(†3)キドシーム(Kiddusheem)、81で取り扱い。マイヤー氏によって引用された92頁、94頁、およびゾハールによるカバラを参照。

(‡4) マランゴネの著作“大天使聖ミカエル、偉大なデッレ”では、著者は次のように叫ぶ。“おお、それは最大のキリストである太陽に続く星!. . . おお、神聖な生きるイメージよ!旧約聖書の魔術や妖術を使う偉大な者!おお、教会のなかの見えないキリストである司祭!. . .”等など、成果はラテン教会にとって偉大な名誉である。

 

(つづく)

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 ☆個人的に興味があった章の一部のみの記載です、素人の抄訳で誤訳もあるかと思います、不明な箇所は原著の頁を御覧ください。

 ☆原書として、Theosophical University Press版 【 The Secret Doctrine Vol.2】 を参照しました。

 

 ☆以下に英文も掲載しました、ご参考まで。ON THE MYTH OF THE

Vol. 2, Page 477   THE GENESIS OF THE DEVIL.

May we not then be permitted to drag the deep rivers of the Past, and thus bring to the surface the root idea that led to the transformation of the Wisdom-God, who had first been regarded as the creator of everything that exists, into an Angel of Evil — a ridiculous horned biped, half goat and half monkey, with hoofs and a tail? We need not go out of the way to compare the pagan demons of either Egypt, India, or Chaldea with the devil of Christianity, for no such comparison is possible. But we may stop to glance at the biography of the Christian Devil, a piratical reprint from the Chaldeo-Judaean mythology: —

The primitive origin of this personification rests upon the Akkadian conception of the cosmic powers — the Heavens and the Earth — in eternal feud and struggle with Chaos. Their Silik-Muludag, “the God amongst all the Gods,” the “merciful guardian of men on Earth,” was the Son of Hea (or Ea) the great God of Wisdom, called by the Babylonians Nebu. With both peoples — as in the case of the Hindu gods — their deities were both beneficent and maleficent.

As Evil and punishment are the agents of Karma, in an absolutely just retributive sense, so Evil was the servant of the good (Hibbert Lect. 1887, pp. 101-115). The reading of the Chaldeo-Assyrian tiles has now demonstrated it beyond a shadow of doubt. We find the same idea in the Zohar. Satan was a Son, and an Angel of God. With all the Semitic nations, the Spirit of the Earth was as much the Creator in his own realm as the Spirit of the Heavens. They were twin brothers and interchangeable in their functions, when not two in one.

Nothing of that which we find in Genesis is absent from the Chaldeo-Assyrian religious beliefs, even in the little that has hitherto been deciphered. The great “Face of the Deep” of Genesis is traced in the Tohu-bohu, “Deep,” “Primeval Space,” or Chaos of the Babylonians. Wisdom (the Great Unseen God) — called in Genesis chap. i. the “Spirit of God” — lived, for the older Babylonians as for the Akkadians, in the Sea of Space. Toward the days described by Berosus, this sea became the visible waters on the face of the Earth — the crystalline abode of the great mother, the mother of Ea and all the gods, which became, still later, the great Dragon Tiamat, the Sea Serpent. Its last stage of development was the great struggle of Bel with the Dragon — the Devil!

Whence the Christian idea that God cursed the Devil? The God of the Jews, whomsoever he was, forbids cursing Satan. Philo Judaeus and Josephus both state that the Law (the Pentateuch and the Talmud) undeviatingly forbid one to curse the adversary, as also the gods of the gentiles. “Thou shalt not revile the gods,” quoth the god of Moses (Exodus xxii. 28), for it is God who “hath divided (them) unto all nations” (Deut. iv. 19); and those who speak evil of

Vol. 2, Page 478

“Dignities” (gods) are called “filthy dreamers” by Jude (8). For even Michael the Archangel durst not bring against him (the devil) a railing accusation, but said: “The Lord rebuke thee” (ibid 9). Finally the same is repeated in the Talmud.(*2) “Satan appeared one day to a man who used to curse him daily, and said to him: ‘Why dost thou this?’ Consider that God himself would not curse me, but merely said: ‘The Lord rebuke thee, Satan.’ ”(†3)

神This bit of Talmudic information shows plainly two things: (a) that St. Michael is called “God” in the Talmud, and somebody else “the Lord”; and (b) that Satan is a God, of whom even the “Lord” is in fear. All we read in the Zohar and other Kabalistic works on Satan shows plainly that this “personage” is simply the personification of the abstract evil, which is the weapon of Karmic law and Karma. It is our human nature and man himself, as it is said that “Satan is always near and inextricably interwoven with man.” It is only a question of that Power being latent or active in us.

It is a well-known fact — to learned Symbologists at all events — that in every great religion of antiquity, it is the Logos Demiurge (the second logos), or the first emanation from the mind (Mahat), who is made to strike, so to say, the key-note of that which may be called the correlation of individuality and personality in the subsequent scheme of evolution. The Logos it is, who is shown in the mystic symbolism of cosmogony, theogony, and anthropogony, playing two parts in the drama of Creation and Being, i.e., that of the purely human personality and the divine impersonality of the so-called Avatars, or divine incarnations, and of the universal Spirit, called Christos by the Gnostics, and the Farvarshi (or Ferouer) of Ahura Mazda in the Mazdean philosophy.

On the lower rungs of theogony the celestial Beings of lower Hierarchies had each a Farvarshi, or a celestial “Double.” It is the same, only a still more mystic, reassertion of the Kabalistic axiom, “Deus est Demon inversus”; the word “demon,” however, as in the case of Socrates, and in the spirit of the meaning given to it by the whole of antiquity, standing for the guardian Spirit, an “Angel,” not a devil of Satanic descent, as theology will have it. The Roman Catholic Church shows its usual logic and consistency by accepting, as the ferouer of Christ, St. Michael, who was “his Angel Guardian,” as proved by St. Thomas,‡ while he calls the prototypes of Michael and his synonyms, such as Mercury, for example, devils.

Footnote(s) ———————————————

(*2) Vide Isis Unveiled, Vol. II., 487, et seq.

(†3) Treat. Kiddusheem, 81. But see the Qabbala by Mr. I. Myer, pp. 92, 94, and the Zohar, quoted in his Volume.

( (‡4) In the work of Marangone “Delle grandezze del Archangelo Sancto Mikaele,” the author exclaims: “O Star, the greatest of those that follow the Sun who is Christ! . . .O living image of Divinity! O great thaumaturgist of the old Testament! O invisible Vicar of Christ within his Church! . . .” etc., etc. The work is in great honour in the Latin Church.

 ーーーーーー

【秘密教義】 第2巻 第2部ー18章 『堕天使』の神話、そのさまざまな面について。 (その1)

  <<1888年に出版された H.P.ブラヴァツキー の著作>>

  ーー邪悪な霊とは: 誰なのか、何者だろうか?ーー

        シークレット・ドクトリン【秘密教義】 

 

         第2巻―第2部 ―18章  475頁~

 

 

 

                      H.P.ブラヴァツキー 著

                                aquamarith (ハテナ名)    訳                           

Page 475

 “堕天使”の神話、そのさまざまな面について。

———————

A.

邪悪な霊とは: 誰なのか、何者だろうか?

 いま私たちと神学との間には仲違いがある。教会は主観的な神と悪魔(デビル)に対する信念を強要する、その合間に、オカルトティズムはそのような誤った信念についての説明をする。多神教者やオカルティストに、そして悲観論者にとっても、自然は“魅力的な母親だが、石の冷厳さ”よりも優れてはいないーこれは現象界の物理的性質に関してのみ真実である。彼女(自然)は巨大な屠殺場であり、そこでの犠牲者になるか、逆に実行者になることの順序に優劣はないとする思慮の浅い観察者に彼らは同意する。

 

 自然界の多くの欠陥や間違い、とりわけ自生的な傾向を確信したならば、悲観的な倒錯した冒涜とは、自然界の中に姿を隠している神や神聖なものが存在しないということを最高の証拠としていると想像しなければならない。唯物論者や物理学者は、すべてが見えない力と偶然の出来事にあり、最強のものが生き残こるように、適合的に生存していると想像すべきだとする。

 

 しかし、オカルティストたちは、実際の性質というものを欺瞞的な認識の面で最も変化のある、様々な錯覚であるとみなす、すべての痛みや苦しみではなく、絶え間ない生存にとっての必要な痛みを認識している人々:その絶え間なく成長していく完璧さへの一連の段階は、決して間違っていないカルマの抽象的な影響で見えるのであり、オカルティストである私たちは偉大な母を見るのだと言う。

 

 苦しむことなく生きる人々に、難しさがある。変化なく無為に暮らすものすべての未来は停滞や、死んだような状態だろう。前段階で(カルマとの)釣り合いが取れた苦しみがなければ、どのようにしてよりよい変化をもたらすことができるのだろうか? 生き方、苦痛、死の大きな問題を解決するように前もって定められたのは、現象界の錯覚に基づく誘惑と世俗的な希望の欺瞞的価値を学んだ人々のためだけなのだろうか?

 

 現代の哲学者たちに先駆けて— 中世の学者たちは—- 神学者は古代の一つの基本的な考え方に助けられて、古代の異教徒のパンテオンの登場人物から、神と大天使たち、彼らのサタンと天使たち、そしてロゴス(司神)と、その御使いとを一緒に作った。

Page 476

 彼らは元の特性を狡猾に歪めたり、哲学的な意味を邪道に陥らせた、そして人類の一部の代表者だけが考えることが許されていた長い年月の精神的な眠りの結果であるキリスト教世界の無知を利用して、 - すべての象徴を最も解決できない混乱に追いやった。 この方向での最も罪深い成就の一つは、神聖な自我がつくり変えられ、彼らの神学の醜悪なサタンに変身させられたことであった。

 

 悪の問題全体について哲学は、自然と人の内なる存在のしくみ、動物の中の神聖な存在のしくみや、これらの書物で与えられているような正確な全体の体系の正しい理解という壁にぶつかる、だが進化の冠の一部に、- 人間 - 私たちは神学的なごまかしに対して十分な予防措置を取ることができない。聖アウグスティヌスと激しいテルトゥリアヌスが悪魔(デビル)を“神の猿”と呼んだ時、これは彼らが生きた時代を知らないことに起因する可能性がある。同じ場で現代作家の言い訳することは難しい。

 

 マズダ教徒の文献の翻訳は、ローマカトリックの作家たちに、もう一度同じ方向に彼らの主張を証明するための口実を与えた。 彼らは、ゼンド・アヴェスターとヴェンディダード(ウィーデーウ・ダート)、そして彼のアムシャスペンドたちのアフラ・マズダの二重の性質を利用して、彼らの突飛な理論をさらに強調している。サタンは後の時代に来る宗教の予想による剽窃師であり模倣者である。

 

 これはラテン教会のマスター(師)の決め手の一つであり、ヨーロッパでのスピリチュアリズムの登場以来の最高の切り札である。初期神智学やスピリチュアリズムのいずれにも興味がない人々の間でさえ、一般的に成功しているだけに過ぎない、さらに対抗手段として、キリスト教徒(ローマカトリック)のカバリストたちが東洋のオカルティストたちに対して頻繁に用いたのである。

 

 いま大陸の熱狂的な“キリスト教徒”(彼らは「セクト主義者」と呼んでいるが)カバリストと比較して、唯物主義者であっても、全く無害であり、神智学の友人とみなされるのだろう。 彼らはゾハールを読んだが、古代の知恵を見つけ出すことなく、テキストと意味深長な、キリスト教のドグマを押し潰すことによって、その詩句の意味がこれまで、どこにもなかったことを発見した; そして、イエズス会の(陰険な)詭弁と学習の総体的な援助でそれら引き出して取り上げた“カバリスト”と推測される者は、書を記してカバラ(*1)の、あまり先見の明のない学生を誤解させ始める。

 

 脚注 ———————————————

 (*1)そのような擬似カバリストはフランスのマルキス・ド・ミルヴィルで、古代ラビ・カバリストがローマ教会に改宗し“シュヴァリエ”ドゥラックの下でゾハールと他の古代ユダヤ人の知恵を研究していた、その彼の助けを借りて、あらゆる著名なスピリチュアリストとカバリストに対して中傷や非難に満ちた6巻にも及ぶ書を記した。1848年から1860年にかけて、彼はフランスで最も初期の東洋のオカルティストの一人であった老練なカウント・ド・オーチスを迫害した、彼の遺族によってオカルト知識が正しく評価されることはなかった、なぜならば彼がスピリティズムの仮面の下、真実の信念と知識を隠したからである。

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(つづく)

 

 ☆個人的に興味があった章の一部のみの記載です、素人の抄訳で誤訳もあるかと思います、不明な箇所は原著の頁を御覧ください。

 ☆原書として、Theosophical University Press版 【The Secret Doctrine Vol.2】 を参照しました。

The Secret Doctrine: The Synthesis of Science, Religin, and Philosophy (Volumes 1 and 2)

The Secret Doctrine: The Synthesis of Science, Religin, and Philosophy (Volumes 1 and 2)

 

  

 ☆以下に英文も掲載しました、ご参考まで。

ON THE MYTH OF THE “FALLEN ANGEL,” IN ITS VARIOUS ASPECTS.

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A.

The Evil Spirit: Who, and What?

Our present quarrel is exclusively with theology. The Church enforces belief in a personal god and a personal devil, while Occultism shows the fallacy of such a belief. And though for the Pantheists and Occultists, as much as for the Pessimists, Nature is no better than “a comely mother, but stone cold” — this is true only so far as regards external physical nature. They both agree that, to the superficial observer, she is no better than an immense slaughter-house wherein butchers become victims, and victims executioners in their turn.

 

It is quite natural that the pessimistically inclined profane, once convinced of Nature’s numerous shortcomings and failures, and especially of her autophagous propensities, should imagine this to be the best evidence that there is no deity in abscondito within Nature, nor anything divine in her.

 

Nor is it less natural that the materialist and the physicist should imagine that everything is due to blind force and chance, and to the survival of the strongest, even more often than of the fittest. But the Occultists, who regard physical nature as a bundle of most varied illusions on the plane of deceptive perceptions; who recognise in every pain and suffering but the necessary pangs of incessant procreation: a series of stages toward an ever-growing perfectibility, which is visible in the silent influence of never-erring Karma, or abstract nature — the Occultists, we say, view the great Mother otherwise.

 

Woe to those who live without suffering. Stagnation and death is the future of all that vegetates without a change. And how can there be any change for the better without proportionate suffering during the preceding stage? Is it not those only who have learnt the deceptive value of earthly hopes and the illusive allurements of external nature who are destined to solve the great problems of life, pain, and death?

If our modern philosophers — preceded by the medieval scholars — have helped themselves to more than one fundamental idea of antiquity, theologians have built their God and his Archangels, their Satan and his Angels, along with the Logos and his staff, entirely out of the dramatis personae of the old heathen Pantheons.They would have been

Vol. 2, Page 476  

welcome to these, had they not cunningly distorted the original characters, perverted the philosophical meaning, and taking advantage of the ignorance of Christendom — the result of long ages of mental sleep, during which humanity was permitted to think only by proxy — tossed every symbol into the most inextricable confusion. One of their most sinful achievements in this direction, was the transformation of the divine alter ego into the grotesque Satan of their theology.

 

As the whole philosophy of the problem of evil hangs upon the correct comprehension of the constitution of the inner being of nature and man, of the divine within the animal, and hence also the correctness of the whole system as given in these pages, with regard to the crown piece of evolution — Man — we cannot take sufficient precautions against theological subterfuges. When the good St. Augustine and the fiery Tertullian called the Devil “the monkey of God,” this could be attributed to the ignorance of the age they lived in. It is more difficult to excuse our modern writers on the same ground.

 

The translation of Mazdean literature has afforded to the Roman Catholic writers the pretext for proving their point in the same direction once more. They have taken advantage of the dual nature of Ahura Mazda in the Zend Avesta and the Vendidad, and of his Amshaspends, to emphasize still further their wild theories.

They have taken advantage of the dual nature of Ahura Mazda in the Zend Avesta and the Vendidad, and of his Amshaspends, to emphasize still further their wild theories. Satan is the plagiarist and the copyist by anticipation of the religion which came ages later. This was one of the master strokes of the Latin Church, its best trump-card after the appearance of Spiritualism in Europe. Though only a succes d’estime, in general, even among those who are not interested in either Theosophy or Spiritualism, yet the weapon is often used by the Christian (Roman Catholic) Kabalists against the Eastern Occultists.

 

Now even the Materialists are quite harmless, and may be regarded as the friends of Theosophy, when compared to some fanatical “Christian” (as they call themselves, “Sectarian” as we call them) Kabalists, on the Continent. These read the Zohar, not to find in it ancient Wisdom, but to discover in its verses, by mangling the texts and meaning, Christian dogmas, where none could ever have been meant; and, having fished them out with the collective help of jesuitical casuistry and learning, the supposed “Kabalists” proceed to write books and to mislead less far-sighted students of the Kabala.(*1)

 

Footnote(s) ———————————————

(*1)Such a pseudo-Kabalist was the Marquis de Mirville in France, who, having studied the Zohar and other old remnants of Jewish Wisdom under the “Chevalier” Drach, an ancient Rabbi Kabalist converted to the Romish Church — wrote with his help half a dozen volumes full of slander and calumnies against every prominent Spiritualist and Kabalist. From 1848 up to 1860 he persecuted unrelentingly the old Count d’Ourches, one of the earliest Eastern Occultists in France, a man the scope of whose occult knowledge will never be appreciated correctly by his survivors, because he screened his real beliefs and knowledge under the mask of Spiritism.

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【秘密教義】 第2巻 第3部ー6章 歴史に痕跡を残す巨人族、諸文明、そして海面下の諸大陸。(その4) 

 <<1888年に出版された H.P.ブラヴァツキー の著作>>

ーーー巨人たちの人種 。ーーー異教とキリスト教の一致。ーーーマズダ教徒による7つの地についての見解。ーーー

 

シークレット・ドクトリン【秘密教義】 第2巻 第3部 6章(その4)

 

                      H.P.ブラヴァツキー 著

                       

 

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  巨人たちの人種

 

 スラヴォニア国、特にロシアは古いボガテレイ(並外れた巨人)についての伝説に満ちている、民間伝承の殆どは国家の歴史の基盤として役にたっており、彼らの最も古い歌と最も古い伝統は、昔の巨人たちのことを語る。このように「タイタン」たちの象徴を単なる宇宙の力であると表す現代の理論を、我々は間違いなく拒むだろう。実際に彼らは20フィートまたは12フィート程の身長の実在した人々であった。もちろん、諸人種の歴史の中ではるかに近年に属していたホメロスの英雄たちでさえ、現代人の強さを超越する大きさ重量の武器を用いてきたようである。  

  “10人が強大なバルクを上げることができた、

      これらの退歩した、二度とない日々に生きた、そのような人々。”

 

 カーソンや、インディアナ、米合衆国からの化石の足跡が人間のものであれば、彼らは巨大な人々であったことを示している。それらの誠実さは疑う余地がない。巨大な人々の原型と科学的証拠が単に足跡に基づかなければならないことは残念なことである。幾度も繰り返し、仮説的巨人の骨格は象やマストドンの骨格と同一視されていた。

 

 だがそのような人々は、この地質学の時世に大失敗をするのである、サー・ジョンマンデヴィルの旅行者の架空話がある、それは彼がインドで56フィートの高さの巨人を見たと言うものである、これは巨人たちが存在するという信念があり、どんな時も決して、人々の思考から消滅することがなかったことをただ示しただけなのである。

 

 巨人たちの僅かな人種が存在し異なった痕跡を残したことは知られていたし、受け入れられていた。人類学研究所のジャーナルに(第1871巻(芸術)。C.カーター・ブレイク博士によって)そのような人種は、ユダヤ人のものとは全く異なる頭蓋形態を示し、パルミラに存在し、おそらくミディアンに有するものとして示されている。別のこのような人種がサマリアに存在した可能性はあるだろう、ヨルダン渓谷で新石器時代の極めて堅いものを切って、ガリラヤのストーン・サークルを建て、そして整然としたヘブライ語の文字から全く異なる古代ユダヤの言語を保存したのは神秘的な人々であり、とても背丈のある人々だった。

 

 現代の修正された表現でさえ、聖書の英語訳は決して信頼できない。彼らはネフィリムを“巨人たち”と翻訳し、“毛むくじゃら”な人々であると付け加えた、おそらく教父の気まぐれにより雄弁に記述された後のサチュロスであり、大型で強力な原型なのであろう、教会神父たちのうちの一部の者は、現存し長期間保存された状態で守られた他の“サチュロス”を自分自身で見たと、彼らの追随者と支持者に保証している。“巨人”という語はかつてネフィリムの同義語に採り入れられ、後に解説者は彼らをアナックの息子と区別した。

 

 約束の地を奪い取った妨害者たちは、彼ら自身を超える高身長の人々が既存していたのを発見し、彼らに巨人族と名を付けた。だが実際には巨人族モーセの誕生前に滅んでいた。

 

Page 756

 

 この背の高い人々は、カナンとバシャンにも存在し、ミディアンのナバティ人に代表された可能性がある。彼らは小さなユダヤ人よりもはるかに高身長であった。 4000年前、彼らの頭蓋構造と高い身長は、彼らをヒーバーの子供たちから引き離した。 40,000年前、彼らの祖先はもっと巨大であったのだろう。そして、ブラッドディグナギア人(巨人)がリリプチア人(小人)であったように、我々の時代には、彼らは人類と釣り合っていなければならないのである。

 

 中期のアトランティス人は偉大な龍たちと呼ばれていた、そして“神”と神聖な諸王国が彼らを見捨てたとき、彼らの人種の神の最初の象徴は巨大な蛇であった。

 

 ドルイド僧の起源と宗教にベールをかけている神秘は、支援者たちが想定したとおりであり偉大であり、現代の象徴学者や秘儀参入したオカルティストたちにとっても同じくらい偉大である。彼らの聖職者は最後のアトランティス人の直系であった、知識として彼らがカルデア人とインド人に似た東の聖職者たちであったという推論をするのには十分であるが、 それ以上のことではない。

 

 エジプト人が彼らの神秘を神にしたように、ヒンドゥー教徒がヴィシュヌを神にしたように、彼らの神を彼らが象徴したと推測されるだろう、オハイオの偉大な蛇の塚の建築者たちは、“強い蛇”の形の下で、永遠の時間の神(ヒンドゥー教徒のカーラ)の象徴的な模様のそれらを崇拝した。

 

 プリニーは彼らを “ゴール人と英国人の魔術師”と呼んだが、それ以上のものだった。 “インドの古代遺物”の著者は、ドルイド僧とインドのバラモンの間に多くの親近性があると見ている。ボーラス博士は、ペルシャの魔術師 (*22)との類似点を指摘している。他の者たちは、彼らとトラキアオルフェウスの聖職者との間の帰属意識を見るだろう。彼らの秘教的な教えと普遍的な“智慧”の宗教と彼らが結びついており、すべての顕教の崇拝に親近感を与えていたからである。

 

 ヒンドゥー教徒ギリシア人、ローマ人(我々は秘儀参入者たちについて話す)、カルデア人とエジプト人のように、ドルイド僧たちは諸世界の変遷の教義を信じた、同じように7つの“創造物”(新大陸)と地球、そして地球のための7倍の夜と日(“エソテリック・ブッディズム”参照)。 卵を持つ蛇がどこにあっても、確かにこの教義がそこに存在した。 それらのドラゴンティアはそれの証拠である。この信念は非常に普遍的で、様々な宗教の秘教の中でそれを求めるなら、我々はすべて発見するだろう。

 

 脚注———————————————

 (*22) しかし、ペルシャの魔術師は、必ずしもペルシャ人ではなかったしカルデア人でさえもなかった。彼らは遥か彼方の国の出身であり、東洋学者はその土地がメディアであったという意見があった。これはそうかもしれないがメディアのどんな地域からなのだろう? これの返答は受け取ってはいない。

 

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  異教とキリスト教の一致。

 

 アーリア人ヒンドゥー教徒やマズダ教徒、ギリシア人、ラテン系民族、そして古代ユダヤ人や初期のキリスト教徒たちの現代の血族は、彼らの文書を読んでも、今は理解することさえ難しいということを見つける。セネカが“書簡9、問答集-3, c., ult.”中で何を述べているのかを見ることにする、世界が溶かされていって木星の胸に再び入り込んだ、この神はしばらくの間、自分自身に吸収されて隠され続け、完全に考えに没頭し続ける。

 その後、新しい世界が彼から突然現れる. . . . 人々と動物たちの罪のない人種が新たに生まれまる. . .など。 再び普遍的な死を伴う周期的でありふれた消滅について話すとき、彼(セネカ)は“自然の法則が破滅して埋まって、世界の最後の日が来ると、南極は崩壊するだろう、それは下って、アフリカのすべての地域、そして北極は、その軸の下のすべての国を圧倒するだろう。

 恐れた太陽はその光を奪われるだろう、荒廃し没落している天国の宮殿は生と死の両方をすぐに生み出し、ある種の消滅はすべての神を同じようにとらえ、そのようにして元の混沌に戻る”(“神の書”、160頁参照。)

 

 読者は自身が大プララヤのパラサラによってプラーナ文献に関する説明を読んでいると想像するかもしれない。それは考えについての考えだと言うことほぼ同じである。キリスト教には何の記述もないのだろうか? それについて述べることにする、読者は英語の聖書を開き、ペテロ第二書簡の第3章の詩句3、1~14まで読んでみれば、同じ考えを見つけるだろう. . . . “終わりの日に嘲る者どもがやって来るだろう. . .いわば‘ 彼が訪れるという約束はどこにあるのだろうか?. . . . 父たちが眠りに落ちてから、彼らが創造の初まりからだったので、全てのことが続くのである。

 ゆえに、彼らは無知である. . . . 神の言葉によれば、諸天は古く、そして地球は水の外に、水の中に位置していた、世界はそれからは水で氾濫して冷え切った(機能を失った)。しかし諸天と地のそれは今は火に留まった. . . . そうして諸天がある. . . . 諸エレメントは強烈な熱で溶けなければならない. . . .それにもかかわらず、我々は新しい諸天と新しい地球、など、その他を探す。

 

 解釈者がこの中での創造への言及、大洪水そしてキリスト降誕(約束されたキリストの来訪)を見ることを選んだならば、彼らは天国の新しいエルサレムに住むだろう、これは“ペテロ”の誤りではないのである。使徒の書簡の意味における筆記者の「何か」とは、地下にある洞穴の火災と洪水による我々第五人種の破壊と第六根本人種のための新しい大陸の出現であった。これらの使徒書簡の全ての筆記者は科学的ではないにしても象徴学(symbology)で学んでいたのは確かである。

 

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 我々の “連鎖”の七つの法則の信念は、最初のザラトゥストラからそれを得た初期のイラン人の最も古い教義であると他の所で言及されていた。 聖書の意味への鍵を失ったパルシー教徒にそれを証明する時である。アヴェスタによると、地球はセプテムパーティテ(七つに分かれた)と考えられて、全く同一の時に三つ組とみなされる。だがリグ・ヴェーダが“3つの地球”に言及しているので、アヴェスタは地球の三つの三分の一について語るが、ガイガー博士によると、彼が名づける矛盾という理由で不一致があるとみなされたのである. . . .

 

  “3つの階層や層、他の層の上に存在しているのは、これによる意味である。”(*23) しかし、彼はすべての顕教的な不敬な翻訳者のように誤りをおかしている。アヴェスタは考えをリグ・ヴェーダから借りたことはなく、秘教的な教えを単に繰り返しただけである。“3つの階層または層”は我々の球体だけを指しているのではなく、天球の連鎖の球体は3つの層に分かれている、2つずつ、各面に1つ、降りている1つ、もう1つは上がっている弧の上にある。

 

 したがって、我々の地球の上方にある6つの球体または球、すなわち7番目と4番目の球体について言うと、それは3つに分かれた面の上にある我々の面の間のセプテムパーティテ(七つに分かれた)である。 この意味は、アヴェスタとベンディダードのテキスト、そして翻訳者と解説者の推測、それも最も面倒で不満足な推測作業によってであっても実証されている。

 

 したがって、“地球”ある程度の地球の連鎖の7つのカーシヴァースへの分割は、この言葉を“面(複数)”と読み替えれば、3つの“区域”と矛盾しないことになる。ゲイガーの言葉通り、この七つの区分は非常に古い、むしろ最も古いものであり、ガサスは既に“セプテムパーティテ(七つから成る)地球”を話しているからである。(ブミ・ハプタイティ、ヤスナ、32、3)。“パルシー教徒の聖書によれば、7つのカーシヴァースは地球の完全に繋がりのない部分”でありそれらは確かである。“それらの間には海が流れているので、いくつかの通路に定まっていて、一つのカーシヴァースから別の通路に通ることは不可能である。 (†24)

 

 “大海”は空間である、もちろん後者は“宇宙の水”と呼ばれ、それがエーテルとして知られていた。 さらに、カーシヴァーという言葉はドゥウィーパ、特にジャムブードゥウィーパ(特にネリオセング、ヤスナの翻訳者)(‡25) のクァニラサによって一貫して表現されている。しかし、この事実は東洋学者には考慮されていない、したがってガイガー博士の翻訳に気付かずに、そしてマズダ教徒の聖書に豊富にあるこの種の“不一致”についての論評の言葉も意見も言わずに、そのまま学んだゾロアスター教徒、パルシー教徒が生まれたのである。

 

 そういった“不一致”と“偶然の一致”のひとつは、プラーナで応じたように7つのドゥウィーパ(むしろ島、大陸、)について、ゾロアスター教とインドの教義との類似性に関係している、“ドゥウィーパは、同芯の複数の輪である大海に隔てられ、中央に位置するジャンブ・ディーパを取り囲んでいる”(130頁、第1)、イラン人の見解によれば、カルシュヴァル・カニラータも同様に残りの中央に位置する. . . . それらのそれぞれ(他の6つのカルシュヴァル)は独特の個別な空間であるため、カニラータ(Qaniratha)#の周りにグループ分けられている(同上、131頁)。

 

 脚注———————————————

 (*23) 129頁、“古代イラン東部の文明。”

 (†24) 参照、例、第一巻、4、パブラヴィ翻訳; Bdh. 21、2-3。

 (‡25) ウィルヘルム・ガイガー博士の“東イラン人の文明”の翻訳者、Darab Dastur Peshotan Sanjana、B.A. による脚注。

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  マズダ教徒による7つの地についての見解。

 

 カニラータ(Qaniratha)とは我々の球体あるいは地球を意味する、ガイガーと彼の翻訳者が信じていたように“イラン人の部族が住んでいる国”あるいは他の名称である“北部、南部、西部、東部の隣り合う領土”(132頁、参照)を意味するものではない。

最後に引用された文、すなわち“2つのヴォーブルシティとヴォルー・ザルシティが北に横たわる”という意味の文であることについて、その2つとは南部のヴィダーフシューとタラダーフシューであり、東部と西部のサハヒとアルザヒは地球の“連鎖”の非常に正確かつ正確な記述であり、ジャーン(11)の本に書かれている。

 

 上記のマズダ教による名称は、シークレット・ドクトリンで正統な教義となるために使われたものに置き換えなければならない。したがって、諸世界の連鎖は我々の球体の上方の地球上の3つの異なる平面に位置しているため、“地球”(我々の世界)は“三つから成る”そして連鎖を構成する7つの球体または球のために、それはセプテムパーティテである。 したがって、ベンディダーッド19.39に与えられたさらなる意味は、“カニラータだけがイマット‘これ’(地)と組み合わされ、他のすべてのカシュバールは‘アヴァット’、‘それ’または上方の地という言葉と組み合わされていることを示している。” プレインナー(平坦なもの)であることでも何でもない。

 

 他のすべての古代信仰の近代的な理解についても同じことが言える。

 11月1日にすべての火が消えたのに対し、魔術師と現代のゾロアスター教徒のように、その神聖で消すことのできない火だけが地平線を照らしていたときに、ドルイド僧は、牡牛座で太陽の意味を理解した。 そして初期第五人種と後のカルデア人ギリシア人、同じくキリスト教徒は再び、こんにちまで同じように、本当の意味を疑うことなく、彼らは明けの明星、美しい金星ルシファー(*26)を迎えた。

 

 脚注———————————————

 (*26) ケネアリー博士は、彼が書いた“神の本”ヴァランシーを引き合いに出す、それによれば、“私はジブラルタルからアイルランドに毎週は上陸していなかったが、そこで、様々な国のユダヤ人のヘブライ語カルデアを学んだ、そのとき私は前兆を耳にした、それは立っている農夫に女の子が、惑星ヴィーナスすなわちカルデアのマデーナ・ナーガ、を指し‘マデーン・ナーガ’(明けの明星を見る)だと話したことである。

   ———————————————

 

Page 760

 

 ブリタニアの近くの島すなわち“ケレスとペルセフォネサモトラケで同じ儀式で崇拝された場所”であるこの島は永遠の火がつけられた神聖イエレナであったとストラボは語る。ドルイド僧は人間の再生を信じた、ルシアンは次のように説明している、“同じスピリット(霊)は、異なる世界ではなく、新しい体で活気づくのである”、しかし、この同じ世界のなかで一連として生まれ変わるのであり、ディオドロスが言うように、人間の魂は限定された期間の後、他の体(*27)に移ると断言した。

 

 これらの教義は、第4人種のアトランティス人から第5人種であるアーリア人のところにいった。彼らは教えを敬虔に保存していた、親族の根本人種が、超人間的能力を獲得するにつれて、あらゆる世代で、より尊大になって終わりに向かって徐々に変わっていった。これらの記録は、先行した人種の巨大な体格だけでなく偉大な知性を思い出させた。 古代から我々に伝わってきたほとんどすべての古い断片には、歴史上のあらゆる時代において、それらの記録が繰り返されている。

 

 アエイリアン(AElian)は、アレクサンダー大王の時代に書かれたテオプラストスから抜粋されて保存された。それはミダスとフリギア人とシレーノスとの対話である。前者は古くから存在していた大陸のことであり、アジア、ヨーロッパ、アフリカはそれに比べて貧しい島のように見えた。それは巨大な動植物を生み出した最後の大陸だった。 そこでは、シレーノスは、彼の(語り手の)時代には身長が最大な人の背丈が二倍に成長し、寿命も二倍長かった。彼らには寺院のある裕福な都市があり、そのような都市には百万人以上の住人が住んでいたし、金と銀が豊富に存在していた. . . .

 

 アトランティスが妄想から生まれた神話であるというグロートの示唆、それは 黄金色の海の上に島々を見せている眩しい空の雲. . . . 気づいたとしてもあまりにも不誠実である。

 

 脚注———————————————

 (*27)全世界、人類全体が一つの宗教を持っていた、そして彼らが“ひとつのことば”だった時があった。“地球のすべての宗教は、最初は「ひとつ」であり、ひとつの中心から出てきた。” ファーバーはまさに事実を語る。

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6章(前編)終わり

 

 原書として、Theosophical University Press版 【 The Secret Doctrine vol.2】 を参照しました。

 

 このシークレット・ドクトリン第2巻-第3部-6章の日本語訳は、2017年5月に書いたSNS(mixi)日記を編集・修正してこちらにまとめたものです。