H.P.B.著作の和訳を試みる & 関連の話題 blog

ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー (1831年 – 1891年) は、近代神智学を創唱しました。・・・主に彼女の代表作である「シークレット・ドクトリン」の和訳を試みています。

【秘密教義】 第2巻 第3部ー6章 歴史に痕跡を残す巨人族、諸文明、そして海面下の諸大陸。 (その1)

  <<1888年に出版された H.P.ブラヴァツキー の著作>>

 ーー神秘的な国。ーー注目すべき “偶然の一致”。ーー 

 

  H.P.ブラヴァツキー の著作であるシークレット・ドクトリンの日本語訳は昨年(2017年)12月に第2巻・第1部が竜王文庫・源忠氏翻訳から発売されています、抄訳では、東條氏の『シークレット・ドクトリンを読む』が既に出版されていて、高額な中古本となっています。                     

 

 今回、個人的に興味があった章の一部のみの記載です、素人の抄訳で誤訳もあるかと思います、不明な箇所は原著の頁を御覧ください。

 

 原書として、Theosophical University Press版 【 The Secret Doctrine Vol. 2  】 を参照しました。

 

 

        シークレット・ドクトリン【秘密教義】 

 

         第2巻―第3部 ―6章  742頁~

 

                      H.P.ブラヴァツキー 著

                         Aquamarith (ハテナ・名)    訳  

 

 Page 742

 冒頭の見出しのような主題が出されると、当然そのような主張を支持する伝説的な証拠ではなく、歴史的な証拠を提供することが著述家に期待される。これは可能なのだろうか? もちろんである、この類の証拠は豊富にあり、収集されて簡単にまとめられて、偏見のない人々の目には抗しがたいものになっている。

 

 賢明な学生が指針となる手掛りを得ると、自分自身でそれを見出すことが出来るだろう。旅する人に我々は事実を示して目印を表していく、ここに与えられている事は今世紀には十分すぎるほど十分である。

 

 ヴォルテールへの書簡でバイイはつぎのように述べた、“フェルネーの重要な古い価値の無い者” の同情が、“知識と知恵の代表であるインドのブラフマンに”、引き寄せられるべきであることは極めて当然であると認識している。“しかし、あなたのブラフマンは古代の指導者たちと比べて非常に若い”。(*1)  

 

 バイイは失われたアトランティスや、いくつかの先史時代の文明国が明確な痕跡を残さずに消え去ったことを、秘教の教えやレムリアのことを知らなかったにもかかわらず信じていた。彼は古代の古典と伝統を広範囲に研究しており、我々が現在“古代文明”と呼んでいる芸術や科学は“現代諸国、そしてそれ以前の国々の偉業ではなく、アジアの歴史上の民族の偉業でもない”とみなしていた。そしてヒンドゥーについての学識があったのにもかかわらず、彼らの人種の古代における否定できない優先順位は、バラモンである彼ら自身よりもずっと古く、さらに学んだ者や多くの人々や人種を比較してみなければならなかった。(†2)

 

 バイイの考えと同じくヴォルテールは、彼の時代の最大の懐疑論者であり同時に卓越した実利主義者であった。彼は“中国やインドの帝国が誕生した、はるか以前から、文化的、学問的、そして強力な国々があった地域に野蛮人たちが押し寄せて、国々が征服されたことで無知と野蛮な原始的な状態に、あるいは純粋な自然な状態に彼らが戻ってしまったのだろうと考えたのである。”

(“アトランティスの手紙”、15頁)。(‡3)

 

    脚注———————————————

 

  (*1) アトランティスの文字

 

  (†2) 古代天文学の歴史、25頁以降。

 

  (‡3) しかしこれは半分、推測である。第五人種では、このような“野蛮人たちが押し寄せた”ことがあった。第四のときに彼らを一掃する泥だらけの水の氾濫があった。しかし、ヴォルテールもバイイも、東方のシークレット・ドクトリン(秘密の教義)が何であるかも知らなかった。

 

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 Page 743

  神秘的な国。

 

 これはヴォルテールが偉大な知性の鋭い推測をしたのであり、バイイの推測もまた“歴史的事実の問題”であったことを示している。そのために“私は長い世代に渡って保存された古代の伝統の偉大な論拠を述べる”と書いた。(同書)ある国が他の国家を導いた後に消滅して痕跡が残らないようになった可能性があると彼は考えた。

 

 人間のマインドに幾つかの記憶を僅かにでも残してはならない事が、古代や古代国家に起こった可能性があるのかと尋ねられたとき、時は事実と出来事の無慈悲な奪回者だと彼は答えた、だが古代エジプトの賢者はそれを保持していた為に、過去の歴史は完全に失われてはいなかったのである。

 

 プラトンによれば、“この地球に、これまで住んでいた人々の最適で最も有益な世代はいったいどの世代であったか、あなたは分からない”とサイスの聖職者はソロンに言ったのである。“あなた(ギリシア人)は子孫であり、それは唯一の弱い種(たね)であり、(*4)そしてそれらはすべて残っている。それは‘彼らの本’で”と彼らは付け加えた、“偉大な国家の保存された記録、それは大西洋海から新興してヨーロッパとアジア(ティマイオス)になだれ込んだ。ギリシアは、かつて栄光の国家だったのだが、矮小で弱い残党になってしまった. . . .” (†5)

 

 この国家は何だったのか? 秘密の教義は、それが最新のアトランティスの第七亜人種であったことを教える、彼らはすでにアーリア民族の血統である早期の亜人種のひとつの中に消えていた、ひとつはヨーロッパの大陸と島に徐々に広がっていき、すぐに海から出てき始めていた。ふたつの人種は、アトランティスの苦難の時代に避難を求めていたアジアの高い高原から降りて行き、新たに出現した土地に定着していった。

移民である亜人種は、すぐに増加し新たな場所で増えていき、多くの家族に分かれ、彼らが戻ってくるのに応じて国々に分かれた。 エジプトとギリシアフェニキア人と北方の血統)がこのように生じたのは、ひとつの亜人種が原因だった。

 

 数千年後の、アトランティスの残りの他の諸人種 、すなわち“黄色と赤、茶色と黒”の者たちは、新しい大陸に侵入し始めた。 渡来人が破られた戦争があり、彼らのうちの少数はアフリカに、他は遠隔地に逃げた。これらの土地のいくつかは、新たな島や地質学的激動起こり、時間の経過とともに変化した。

 

 

  脚注———————————————

 (*4) 老いギリシア人とローマ人とアトランティス人入植者(“神智学の5つの期間”参照)の関係に関する完全な議論のために。

 

 (†5) アトランティスとそのすべての伝統に関する物語は、プラトンの “ティマイオスとクリティアス”によって、すべてが知られていると言われていた。プラトンが幼い頃、彼の重要な90歳の父祖クリティアスから、父祖が青年時代にソロンによる話があった、それは彼の父はドロピダスの友人であった、ソロンは、ギリシア七賢者のひとりである。信頼できるいかなる拠り所も見つからなかったと、我々は信じている。

   

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Page 744

 このように大陸から強制的に切り離され、その結果、アトランティス人の血統の未発達な人種と家族が徐々に、いっそう絶望的で野蛮な状態に陥ったということであった。

 

 シボラ遠征のスペイン人は白人の野蛮人の首長と会わなかったのか、そして有史以前の時代のヨーロッパのアフリカ系黒人の現存在は確かめられなかったのか?これは黒人のそれに、またモンゴル人のそれに関連した系統のこの存在のことであり、これは人類学の障壁である。

 

 ベルギーのラ・ナウレッテ(La Naulette)にある、カーター・ブレイク博士の1867年9月号論文“ナウレッテの顎の上(On the Naulette Jaw)”アンテロープで、数え切れないほど遠く離れた時代に住んでいた人がその一例であると論評している。

 

 “ベルギー南東部のレセの洞窟にあるこの洞窟”、この人類学者は次のように述べている。“ナウレッテの顎が示すように、最も未発達であろう人間が何者であるかの証拠を与える、しかし、そのような人間が装飾の目的のために穿孔された石のお守りを持っていたのである、これらはジロンデの盆地で現在発見された砂岩で作られていた。”

 

 したがって、そのベルギーの人間は非常に"古い"ものであった。現在の川の水位から30メートル上にあるベルギーの高地を覆っている大洪水以前に存在した人間は、トゥーラーン人と黒人の性格を合わせ持っていたに違いない。カンスタデットまたはラ・ナウレッテは人間であり、おそらく黒人であって、エンギスで洞窟に痕跡を残しているアーリア民族のタイプとは無関係であった。アキテーヌの骨の洞窟群の居住者は、はるか後年の歴史に属し、前者より古代のものではないのかもしれない。

 

 もし地球上で人が超古代から存在することを否定しないという理由に対して、科学が異議を唱えると主張するならば、その古代は決定されえない、そしてその存在は地質学的時代の期間によって条件づけられるが、その年代は確認されない、例えば、人が動物に先行していたという主張に対して、科学者が最も明確に反対するならば、あるいはその文明は最も初期の始新世の時代からのものであるとするなら、あるいは、繰り返すが、巨人たち、三つ目の人々、手が四本の人々、足が四本の人々、雌雄同体者たち等が存在していたとしたら、反対者たちは、彼らの問いに対して“どうして分かるのか?新しい発見によっていつでも翻されるかもしれない、あなたがたの個人的なそれぞれの仮説の他にどんな証拠を持つというのだろうか?”

 

 そして人類学者に知られたこの初期のタイプの人がどんな顔であっても猿のようではなかったのである、これらの発見が将来この事を証明することは確実である。カンスタデットの人、エンギスの人は本質的に人間の特質を同様に備えていた。 (デ・カトルファージュとハミーを参照。“クラネスの人間人種”)。人々は連鎖の間違った端でミッシングリンクを探した、そしてネアンデル谷の人は長い間、“すべての急な間違いの不確定状態”(同上)だと却下されていた。

 

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 注目すべき “偶然の一致”

 

 ディズレーリは人を類人猿の仲間と天使の仲間に分けた。理由はキリスト教徒が言うように、“天使の理論”に好意的な文書に、人々の人種(複数)が最少であっても、そのいくらかは適用できるものが記載されていたからである。いずれにしても人類は旧石器時代の絶望的な野蛮人であり全体として冷静ではあり得なかったとするのが典型的な今の科学者たちである、それでも人間が中新世の時代から存在したとするならば、彼らが言うすべては単なる任意の思惑的な推測であり彼ら自身の架空の理論で収まる。

 

 我々は数百年前、数千年前の出来事を語るが、人の始まりを地質学年代(*6)からとするならばそれは数百万年前であると語る、有史以前のぎりぎり数千年の間に起こったいかなる出来事であっても、臆病で慎重な歴史によって許されなかった。それでも我々と殆ど同じ考え方をする科学者がいるのである。

 

 アッベ・ブラッスール・デ・ボワーボーグ氏の勇敢な告白、それは次のような内容である“メキシコ、中央アメリカ、ペルー、ボリビアにおける伝統は、繰り返し見つかる痕跡によってアンデス山脈の膨大な大変動の時、当時のこれらの国々に人が実在したという考えを示唆していて、彼はそれの記憶を保持した”、最新の古生物学者や人類学者といった大多数の科学的な人々はこのような古代に賛成する。

 

 ペルーの、一つ目巨人たちの建造物(遺物が偉大な文明の名残を示す)を起こした人種の民族学的な類似性と特徴を決定することに満足のいく試みが適切になされているだろうか?たとえば、クエラップでは“石の壁が長さ3,600フィート、幅560フィート、高さ150フィートで頂上が平面である大きな個体で構成され築造されていて、大きな別の塊は、長さが600フィート、幅500フィート、高さ150フィートある、合計すると300フィートの高さになった。それは部屋や小部屋だったのである”(大量の証拠は、ペルーの植民地がアトランティス人の分派であると証明するためにドネリーが集めた。)

 

 最も示唆的な事実は、これらの途方もない建築物と古代ヨーロッパ諸国の建築物の建築様式との間の驚くべき類似点である。 ファーガソン氏は、“インカ”文明の遺跡群と、イタリアとギリシアのペラスゴイ人の一つ目巨人の遺物との間の類似を“建築の歴史の中で最も注目に値する、偶然の一致であると考えているとし”“彼らの間になんらかの関係があるだろうという結論に抵抗することは難しいとした。”

 

 脚注———————————————

 (*6)ヘッケルのいわゆる中新世の“類人猿”は、偏執狂者の夢である、そして、それをド・カトルファージュ氏(著書“人間の人種”(pp. 105-113)を参照)は賢明にも決着をつけた。世界が精神病気質の唯物主義者の労作を受け入れなければならないかは、明らかではない(誰の理論を受理する必要があるのか、科学や自然における様々な未知の動物、例えばソズラのようにヘッケルの想像力以外に、これまで決して存在しなかった両生類のような生き物に対する信頼性を受け入れる)、これはむしろ古代の伝統ではない。

  

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 この“関係”は、これらの建造物を考案した民族の起源によって、大西洋大陸の広く知られた中心地から簡単に説明される。後者の受け入れは、我々は現代科学のほぼすべての分野で、これと類似した問題の解決に近づくのをたすけること事ができる。

 

 ラルテット博士は、この主題について次のように述べて、この問題を解決している、“真実はとても長い間の争われる、人と共存した大型絶滅種(エレファス・プリミジェニウス(ナウマン象)、リノセロス・チコラッヒヌス(サイ)、ヒアエナ・スペラエア(ハイエナ)、ウルサス・スペラエア、などなど)は、これからは論破することは不可能で、科学によって明確に勝利するように私には見える。”(“ペリゴールの洞窟”、35頁)

 

 それがド・カトルファージュ氏の意見でもあることが他で示されている。“人は、中新世時代(*7)、必然的に全ての鮮新世時代をおそらく経験したであろう”と彼は言う。“人の痕跡はさらに後になって発見されるだろう…” と彼は付け加える(“人間の種”、152頁)

 

 現在、地図上で跡を辿るとエジプトはヨーロッパよりもはるかに古い。英国の島々(†8)とフランスさえ存在しなかったとき、それに着手し始めたのがアトラント・アーリア人の部族である。“エジプト海の舌”、つまりエジプト低地のデルタ(三角州)は、非常に穏やかな土地になり、アビシニアの高地に続いたことはよく知られている。 それは突然起きた後者とは異なり、海洋性粘着物と泥の連続層そして比較的長い間に大きな川(現在のナイル川)によって育まれた土が毎年堆積し、長い年月をかけて非常にゆっくりと形成された。

 

 さらに安定して肥沃な土地としてのデルタは、10万年以上の間、居住地にされた。後の部族は、その前身よりもさらに多くのアーリア人の血統を持って東方から到着し、秘密の技法ではない方法で後世(過去)に失われていた人々から、その人種を征服した。

 

 紀元前数千年の範囲まで、これら粘着物で出来た自然の遮蔽物は荒れ果てた海岸に近づくすべての小舟をゆっくりと確実に呑み込んだ、それは後のエジプト人の最高の保護手段であった、エジプト人はヴィスヴァミトラの日にマヌ・ヴィナによって導かれ、アラビア、アビシニア、そしてヌビアでそれに到達することが出来た。 (“イシス・アンヴェールド” 1巻、627頁、クルカ・バハッタの言葉を参照)

 

 脚注———————————————

 (*7) “アトランティス、アンテ大洪水世界”の独創的な著者は、様々なギリシアとローマの諸組織の起源について議論している、それは“こんにちの制度の根源は中新世時代にまで遡る”という彼の信念を表現するものである。ああ・・これはすでに述べたこと、さらにまだである。  

 

 (†8) だが我々はそれらを知っている。 地質学では、英国の島々が4回浸水し、再上昇したことを証明しただけでなく、遠い過去の時代にはヨーロッパとの間の海峡が乾いた土地であったことを証明している。

 

 

 

 (続く)

 

  ◎このシークレット・ドクトリン第2巻-第3部-6章(その1〜4)の日本語訳は、2017年5月に書いたSNS(mixi)日記を編集・修正してこちらにまとめたものです。