H.P.B.著作の和訳を試みる & 関連の話題 blog

ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー (1831年 – 1891年) は、近代神智学を創唱しました。・・・主に彼女の代表作である「シークレット・ドクトリン」の和訳を試みています。

【秘密教義】 第2巻 第3部ー6章 歴史に痕跡を残す巨人族、諸文明、そして海面下の諸大陸。(その3)

 <<1888年に出版された H.P.ブラヴァツキー の著作>>

  ーーーダーウィン信奉者は真実を拒絶する。ーーー さらに驚くほどの矛盾。ーーー

  

シークレット・ドクトリン【秘密教義】 第2巻 第3部 6章(その3)                       

                    H.P.ブラヴァツキー 著

                  

 

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  ダーウィン信奉者は真実を拒絶する。

 

 それは—

 “バルト海と北海の水位が現在よりも400フィート高くなった時代に、そしてソンメーの谷が今は到達している深さまで窪んでいない時代に、シチリアがアフリカと、バルバリがスペイン”に加わっていた時代には、カルタゴ、エジプトのピラミッド、ウスマルとパレンケの宮殿は存在しなかった、そして後に大胆な航海者タイアーとサイドンは、未だに存在していないアフリカの海岸沿いの危険な航海を行うことになっていた。

 

 我々が確実に知っていることは、ヨーロッパの人間は第四紀の絶滅種と同時代に存在したということである. . . . それは彼が遥か昔、歴史的伝統の夜明け前に何千年も住んでいたという意味であり、アルプスの激動と氷河の拡張の目撃者であった. . . .

 

 人がこれまでより古代の種であり、絶滅した種類の哺乳動物と人が、同時代に存在した可能性さえある. . . . セント・プレスト砂地に生息したエレファス・メリージョナリスゾウ. . . . そして古代エレファスゾウは、エレファス・プリミジニアスゾウ以前に生息したと考えられた。リノセロス・ヘミタケスサイやマチャロデュス・ラティディエンスに関連した彼らの骨は、英国のいくつかの洞窟に彫刻されたフリント石と共に見つかった. . . . M. E. ラレット氏は、第三紀早期に人が存在したことは実際に不可能なことではないという意見である。(†16)

 

 科学的に“不可能なことでも何でもない”と考えれば、第三紀の早い時期に人がすでに存在していたことが認められるかもしれない、だがクロール氏はこの期間の始まりを250万年前に戻した(クロールの“気候と時間”参照)のである、そのことは読者に、彼が人の存在した時期に1500万年を割り当てた時があったと思い出させることは当然である。

 

 そして、このすべてがヨーロッパの人間のことだと言われたならば、レムロ・アトランティスとアトラント・アーリアンの古代はどれほど長期間だったのだろうか? 科学の進歩に従った高度な教育を受けた人たちは、第三紀の人類のすべての痕跡がどのように解釈されているかについて知っている。“デノアイエ(1863年にフランスの研究所を開設した)に浴びせられた中傷に対して、彼はシャルトル近郊のセント・プレストの自然そのままの砂漠の砂の中で、人間とエレファス・メリジョナリスゾウの共存を証明した”ことによって対応できたのである。

 

 脚注———————————————

 (*15)“アトランティス最大の大陸の最終的な消滅はアルプスの上昇と同時におきた出来事であった”とマスター(大師)は書いている(エソテリック・ブッディズム70ページ参照)。 我々の半球の乾いた土地の一部が消滅したことで新大陸の地が海から若干現れた。 150,000年間続いたこの途方もない大変動により、すべての “大洪水”の伝説が作られ、ユダヤ人は後に “ポセイドニス”でおきた出来事を元にして、その改作をつくり上げている。

 

 (†16) トゥールーズ科学アカデミーのM. ジョリー教授による "金属時代以前の人間" の人類の古代、184頁。

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 アッベ・ブルジョアによる後の発見(1867年)、それは “人”が中新世の時代に住んでいたことである、そしてその評価が1872年にブリュッセルで開催された先史時代歴史議会で示されたが、それは科学が標準とする“人”であるとは決して認めることができないと証明するものであった、だが彼は認めてほしいと望むのである。(*17)

 

 現代の考古学者は、ドルメンとその建築者に無限に様々な思索を投げかけているが、実際にはその起源やそのものについて何も知らないのである。しかし、これらの奇妙な、その多くが途方もなく巨大な未築石(切り出されていない石)の記念碑は、通常4つまたは7つの巨大なブロックで構成され、それらの組み合わせや列に置かれた状態でアジア、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカに散らばっている。

 

 2つ、3つ、4つの区画の上に、そしてポイトウ(Poitou)のように6つ、7つの区画の上に巨大な大きさの石は水平に、さまざまに配置されていたのが発見された。人々はそれらを“悪魔の祭壇”ドルイドの石、巨大な墓と名づける。 モルビアン(ブルターニュ)にあるカルナックの石は、ストーンヘンジの石とは双子の姉妹であり、長さは約1マイル、列の数は11で、数えると11,000ある。 モルビアンにあるロック・マリア・カー(Loch-Maria-ker)のコニカル・メンヒルは、長さが20ヤード、幅が約2ヤードである。チャンプ・ドルレンのメンヒルは(Menhir of Champ Dolent)(セント・マロの近く)地上30フィート上方にそびえ、下には15フィートある。そのようなドルメンと先史時代の記念碑はほぼすべての緯度で一致する。

 

 それらは地中海の盆地で見つかり、デンマークでは(高さ27フィートから35フィートの地元の古墳の間で)、シェトランドそしてスウェーデンでは、それらはギャングリフトン(または通路の墓)と呼ばれている。ドイツでは巨大な墓ハンネングレイベン(Hunengraben)として知られている、スペイン(マラガ近郊のアンティグエラのドルメンを参照)、アフリカ、パレスチナアルジェリアそして、サルデーニャでは(ヌラーゲと巨大な墓(Nuraghi and Sepolture dei giganti)、または巨人の墓を参照)と、マラバルそして、インドでは、それらはダイティヤたち(巨人たち)の墓と呼ばれ、ラクシャサス、すなわちランカの悪魔の人々と呼ばれる、ロシアとシベリアでは、コールガン(Koorgan)として知られている、ペルー、ボリビア、チュルパスや埋葬地などと呼ばれている。他多々。

 

 それらが存在しない国はない。誰がそれらを造ったのだろうか? それらはなぜ蛇と龍や、アリゲーターやクロコダイルと関係していたのだろうか? “旧石器時代人”の遺骨は、一部で発見されたと考えられている、またアメリカの葬式の墳丘では骨のネックレス、武器、石と銅の壷などの身の回りの道具と共に後の人種の複数の遺骨が発見された、したがって、それらは古墳と宣言されている。

 

 脚注———————————————

 (*17) 科学的な“陪審員”は、いつものように意見を異にした、ド・カトルファージュ、デ・モルティエ、ウォルソー、エンゲルハルト、ヴァルデマール、シュミット、カペッリーニ、アミーとカルタイヤックが火打ち石という人間手仕事の痕跡を、ステーンストロップ、ヴィルコー、デソルが拒否したのを見たのである。 なお多くの人が、ブルジョワのためにイギリスの若干の科学者を除外しているのである。

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  さらに驚くほどの矛盾。

 

 確実に有名な2つの塚、そのひとつはミシシッピ渓谷の“アリゲーター塚(Alligator Mound)”であり、もうひとつはオハイオ州の“偉大な蛇の塚”であると知られていたが、決して墓* (下記参照)のためのものではなかった。それでも、ある人物が権威を持って言ったことは、塚群、塚またはドルメン建築者たちはすべてヨーロッパの “ペラシック(Pelasgic)”#であり、アメリカの、インカに先立つ“あまり遠い時代のものではない”ということである。それらは“ドルメン建築者たちの人種ではない”ものたちによって造られたが、(デ・モルティエ、バスティアン、ウエストロップの意見は)初期の考古学的空想を除いて決して存在しなかったとされた。最終的に、ドイツの巨大な墓(複数)に関するヴィルコーの意見は、今や公理として受け入れられている、“墓(複数)だけは巨大であり、それらを含む骨(複数)ではない”と、ドイツの生物学者は言う、考古学は頭を垂れ、決定に従うことが必要であると。(†19)

 

 これまで“墓(複数)”には巨大な骨格は見つかってはいないが、そこに巨人の遺骨が残されていなかったという理由にはならない。火葬は、比較的最近の期間、約8~10万年前まで一般的であった。 さらに実在した巨人たちは、ほぼすべてがアトランティスと共に溺れてしまった。それにもかかわらず、発掘された巨大な骨格についての話が幾度も古典などの何処かでされる。これらの他に“人”の化石は、手の指で数えられるだけあるのだろうか。

 

 まだ発見されていない骨格は5から6万年(‡20)の間のもので、それほど古くはない、アーリア人の第三亜人種の血統が以来、人の大きさは15フィートから10~12フィートにまで低くなっていった、亜人種は新しい気候と状況の下でヨーロッパと小アジアで生まれそして発展した、そしてヨーロッパ人になった。それ以来、人の大きさは確実に小さくなった。

 

 したがって、墓(複数)だけが古いものであるのは真実だが、必ずしも人々の遺骨がそれらの中に時折見られるという訳ではない、それらの墓(複数)は巨大なので巨人たち(§21)というよりむしろ巨人たちの世代の灰が混ざっていたに違いないのである。

 

 脚注———————————————

 (*18) 我々は科学的研究から以下の記述を取る。 “これらの動物たち(アリゲーター)の構造物の最初のものは、かなりの技術を持って設計されており、長さが250フィート以上ある. . . . . 内部装飾は石を積み重ね、その上に形の見事な堅い粘土で形作られている。巨大な蛇は、最も太い部分に直径100フィートの卵を飲み込むという行為の意味で口が開いた状態で表現されている、動物の体は優雅な曲線を描き、尾は螺旋状に巻かれていた。動物の全長は1,100フィートある。この造形は独特であり. . . . 古代大陸にはそれに類するものは何もないと述べている。”しかし、その象徴である“蛇”(時間のサイクル)は、コスモスである卵をのみ込んでいるのである。

  

 (†19) 事実の為に科学の専門家を多くして、普遍的な質問の“権威者”を少なくしたほうが良いだろうか。ひとつには、フンボルトがポリープに関する問題、あるいは異常な生成物に関しての威厳で最終的な決定を下したとはまったく聞いていない。

 

 (‡20)ミシシッピ川のほとりにあるニューオーリンズの4つの古代森林の下に埋もれている人間の骸骨にダウラー博士が割り当てた日付は5万7000年である。

 

 (§21)アトランティス人たちの優れた能力に、地中海の野蛮人が驚嘆したと、マレーは言った。“彼らの体力は驚異的であった(それら巨石建物の本当の目撃者。)そして、地面は彼ら踏み固めた下で時々揺れた。彼らがそうしたものは何でも、速やかにされた. . . . . . 彼らは賢明であり人々に智慧を伝えた”(神話4頁)。

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 このような巨石建造物のすべてが、墓を目的とする構造だけではなかった。 ブルターニュのカルナックやグレートブリテンストーンヘンジなどはいわゆるドルイド派の遺跡と呼ばれており、秘儀参入者たちの巡礼が必須であることを示唆した。そして、これらの巨大な記念碑は、すべて世界の歴史のシンボリックな記録である。それらはドルイド的なのものではないが普遍的である。巨大な記念碑を建てたのはドルイドたちではない、彼らは強大な建築者の世代によって残されていた巨石建造物の伝承の相続人だっただけでなく、善と悪の“魔術師たち”であった。

 

 歴史が率先して巨人の実際の存在を否定して、彼らの古代の遺物の記録のほとんどが残っていないということは、常に後悔の対象となる。しかし、全ての古代の歴史である、ほぼ全ての神話では、巨人は重要な役割を果たす。 古くからのスカンジナビアの神話に登場する、神の息子たちが戦った巨人、スクリミールとその同胞たちは、神々と人々の歴史に残された強力な記録であった。

 

 これらの巨人たちを小人たち(ドワーフ)の同胞にする近代的な解釈は、神々の戦いをアーリアの人種の発展の歴史に還元して、マックス・ミューラーによって解説されたアーリア人理論の信者の間でのみ信任を得たいだけなのである。

 

 チュラニア人種が小人たち(ドワーガー)に代表されていたこと、そして黒みがかった丸い頭部と小人のような人種が、色白-顔のスカンジナビア人、あるいはアース神族(人間に似た神族)によって北に移住させられたことを認めている、歴史の中でも、他の科学的研究においても、巨人族については時間的または空間的な存在がどうであれ、人類学的な証拠はないのである。しかし、実際には小人たちと比較的密接に関係して存在していると、シュヴァインフルトは証言することができる。 アフリカのニャム・ニャム(Nyam-Nyam)は通常の小人たちであるが、ニャム・ニャムたちに立ち向かった彼らの次の隣人(比較的色白-顔のアフリカ人のいくつかの部族)は巨人であり、ヨーロッパ人と比較しても非常に高身長で、女性たちの身長は6.5フィート以上である。(シュヴァインフルトの最新の作品を参照。)

 

 コーンウォールの古代ブリテンでこれらの巨人たちの伝統がある一方で、あきらかに共通する彼らはアーサー王の時代まででさえも生きたと言われている。このすべては、巨人たちがチュートンの人々よりも、ケルト人との間で、後々までに住んでいたことを示している。

 

 我々が新しい世界に目を向けるならば、神々と人々が闘った、アンデスの東斜面に位置するエクアドルのタリジャに巨人族の伝統がある。これらの古い信仰の地域の特定の用語である“巨人たちの領域”“ロス・カンポ・デ・ロスの巨人たち”は、常に両立した、鮮新世が持ち上げた浜辺と鮮新世の哺乳類の存在があった。“すべての巨人たちは、オッサ山の下にはない”、そしてギリシャ神話や聖書の神話のなかに巨人の伝統を制限するだろう、それは間違いなく貧しい文化人類学なのだろう。

 

(続く)

 

 原書として、Theosophical University Press版 【 The Secret Doctrine】 を参照しました。